19才にもなって一人暮らしを許してくれない美津子に、ヒカルは黙って家を飛び出した。
財布をポケットに突っ込んだだけでなんの準備もしていなかったヒカルは、それでも気持ちだけは抗議の意味も込めて2、3日は帰らないつもりでいたけれど。
こういう時に限って和谷など、転がり込める人が先約で埋まってたりするとは思わなかった。
「なんだよ。和谷のやつ、自分だけ一人暮らしだからって・・・」
まさか断りの理由が彼女が泊まるからだとは
薄情なヤツだと、どう考えても自分が一方的に頼ろうとしただけなのに理不尽なことを思ってしまう。
同時に一つ違いの和谷と自分の待遇の違いにも益々苛立ちは自分の母へ向けられた。
掃除も洗濯も料理も出来ないのにどうやって一人暮らしをするのと言う美津子。
そんなもの、一人暮らしをする内に何とでもなると言っても、「アンタはまだ子どもなんだから」の一点張りだった。
埒が明かない。

そして行く当てのないヒカルはやはりアキラの待つ碁会所へと辿り着いた。
先週の一局を並べながら今し方行ってきたばかりの美津子とのケンカを愚痴る。
しかしアキラは生返事を返すだけで手元に開いていたカタログを見るのに一生懸命だった。
「お前、なにみてんだよ。」
益々イライラが募ったヒカルはぶすっとなんとも面白くなさそうな声を出す。
それに視線をちらりと揚げたアキラはすぐさま元に戻し
「母への贈り物を考えているんだ」
と静かな声で言った。
塔矢のお母さんの誕生日ってこの時期だっけ?と疑問符を浮かべるヒカルに、アキラは一言「母の日だよ」と言った。

「母の日?」
ぽかんと口を開けて石を挟んだ手を止めるヒカル。
「まさかキミ、忘れてたんじゃないだろうな?」
本日初めてカタログから顔を離したアキラに睨まれヒカルは石を取りこぼした。
「まっまさか!ンなことねェよ!」
明らかに忘れてましたと云わんばかりの焦りっぷり。
「はぁ・・・キミのお母さんが過保護にするのが分かる気がするよ。」
「むか」
「大体キミは何時も何時も、他人に対する感謝が欠けていやしないか?」
「なっ・・・人を冷酷みたいに言うなよ!」
思わず机を叩いて立ち上がると、アキラも負けじとヒカルをにらみ返す。
「じゃあ聞くが、キミは今までに両親に親孝行らしいことをしたことがあるのか?」
「うっ」
思い返せば、ヒカルは母親に数え切れない程の迷惑はかけてきたが、感謝の意を表すようなことを数えれば片手の・・・親指をおることすら出来なかった。

「“親孝行したいときに親は無し”」

アキラの凛とした声が溜め息の後に聞こえてきた。
「無くしてから気付くんでは遅いこともあるんだよ。」
その言葉に、ヒカルは胸の奥が開かれる気がした。そこから流れ出てくるモノは丁度一週間ほど前にも感じたモノだった。鯉のぼりと共に。
アキラは意図して言ったつもりではないだろうが・・・


「・・・何あげればいいのかなぁ」
急に黙りこくったと思ったら、久しぶりに出てきたヒカルの台詞は妙に思い詰めていて、アキラはカタログを椅子の脇に置くと碁笥に手を掛けた。
「ボクに聞かれても」
蓋をあけて、また閉める。
それが、碁を介さない事柄に対してアキラがためらったときにやる癖だとヒカルは最近になって知った。
それはそうだ。自分ですら解らない親の喜ぶものを、赤の他人であるアキラが知るはずもない。
「・・・直接聞けばいいじゃないか」
相変わらずの手つきのままアキラは言って、碁石を取り出し握った。
「ほら、打つぞ」
差し出された右手に答えるようにヒカルは黒石を二つつかみ、盤上に置いた。
アキラが先番だった。








「ただいまー」
いつもの風を装って帰宅したヒカルは、いつもの風を装って美津子のいるキッチンへと向かった。そこでは美津子がステンレス制のコンロの前に立ち得意の煮物を作っている最中だった。
「あら、ヒカル、今日は早かったのね」
「まぁ・・・うん」
「もうすぐ出来るから。上で待ってなさい。出来たら呼ぶわ。」
「うん・・・」
それきり動こうともしないヒカルに、美津子は味見用の小皿を置くと振り返った。
「どうしたの?元気ないけど」
「べつに・・」
「また塔矢くんとケンカでもしたの?」
「なっ!んなことねェよ!」
今日は珍しく、というのは付け足さずに叫んだ。
「あのさ・・・なんか、、、
欲しいもんとか、ある?」
「え?」
聞き慣れない言葉に、美津子はそのまま聞き返した。
「だから!なんかお母さんが欲しいもんってない?!」
半ば怒ったようにそれだけ言うと居心地悪そうにヒカルは眉を寄せたまま視線を流した。
対する美津子は、数年前ヒカルにプロ試験を受けていることをいきなり告げられたときと同じようにぽかんと固まり、吹き零しそうになった煮物鍋の火を止めた。
「どういう風の吹き回し?」
「べつに・・」
「そんなことしても一人暮らしは駄目よ?」
「べつにそんなんじゃねぇってば!ただ・・」
「ただ?」

ヒカルは押し黙った。
思えばこんなに至近距離で会話をしたのも久しぶりかもしれない。
元々美津子とはそれほどベタベタ話し合ったりしたことがないのだ。
避けていると言うわけではないが、世間一般の会話程度しかなく、ヒカルが囲碁のプロという独特の世界に身を置いた今、美津子との共通の会話を持つことは益々難しくなって来ている。

「・・母の日じゃん」

とうとうヒカルは白状した。
「母の日だからさ、何かプレゼントしろって・・・」
塔矢にいわれた・・と、尻すぼみではあるがきっちり他力本願を決め込むヒカルである。

「だから、なんか欲しいもん!」
これが今年20になる青年の台詞であろうか。既に会話の形式は三段論法よりも拙い。
「そんなこと、別に良いのに。」
「んなわけにはいかねぇよ。あげるって決めたんだから!」
もはやだだっ子である。

「そうねぇ・・・でも本当にないもの」
「だーかーらっ!」
「じゃあ、もっと囲碁の勉強なさい。」
「はぁ?!そんなの今と変わらないじゃん!」
それにプレゼントにもなってないとヒカルは頭を掻きむしったが、美津子はまな板を取り出してその上にショウガを乗せるとリズムよく包丁を動かし始めた。
爽やかな香りが鼻を掠める。
「前にも言ったでしょう?私はあんたが元気ならそれでいいの。そのままでいてくれればそれでいいわ。」

その言葉にヒカルはまたあの日を思い出した。一日で二回もこんな気分になるなんて・・・
最近では五月の鯉のぼりが泳ぐ日以外はそう無いことだった。

「私は、碁の事なんて全然解らないから、どんな大変あことがあるか解らないけれど、あんたがそれをちゃんと自分の力で乗り越えて、何時もそうやって一生懸命でいてくれれば、それでいいわ。」

それが一番よ。と切り終えたショウガを鍋に入れ美津子は振り向かないままにそう言った。後ろで一つにくくられた髪の毛がヒカルの目線より随分下で揺れる。
そう言えば、自分の母親は何時の間にこんなに小さくなったのだろう。

乗り越えて・・・
きっと美津子は、ヒカルが今頭の中で思い描いているあの頃を言っているのだろう。
ただただ消えてしまった存在を追いかけ、自分を責め続けたあの日。
それでも見つからずにヒカルはこの世の終わりとも思える絶望と苦しみを受けていた。
だがきっと、そんな息子を観て母親である美津子も、同じ苦しみを味わっていたのではないか。
以前和谷から、美津子から電話がかかってきたことがあったと聞いた事がある。
その時は何のためか問いつめても曖昧に茶を濁した美津子であったがもしかしたらそれも、自分のあの頃の態度と関係があるのかもしれない。

そういや、先生にも会ってたんだっけ・・・

自分のことでいっぱいいっぱいで何も気付いていなかったけれど、あの時本当に辛かったのは自分ではなく、美津子だったのではないか・・・

そう思うと次の言葉も発せられず、ヒカルは大人しく二階に上がったのだった。








部屋の突き当たりに置かれたベッドに倒れ込み、ヒカルは大きく寝返りを打った。
小学生の時から使っているそれは当時は踵がベッドの半分までしか行ってなかったのに、今では底辺にすれすれのところにまで到達している。
少し軋む音を聞きながらヒカルは先程の美津子の言葉を反芻していた。

「俺って本当に親不孝かも・・・」

はぁ・・・と密かに吐いた溜め息は窓から入り込んできた五月風にさらわれ、溶けていく。誰かが柔らかい声でクスクスと笑ったような気がした。

〜〜♪♪♪〜〜〜

良い考えも思いつかずに微睡みかけた頃、タイミングを見計らったかのように携帯が鳴った。ごそごそとジーパンのポケットをまさぐり耳に当てる。

「何だよ?あかり」

定番の受け答えもせずに少々不機嫌に言ってみた。
すると電話越しの相手も同じように眉をしかめた抗議の声を上げる。

「もうっ何よって何よヒカル。電話しろって言ったのはヒカルの方じゃない」
「何が?」
「ヒドイ!ほら公開対局の!」

そこまでいわれてヒカルはやっと「あぁ」と合点がいった。
来週の水曜日、近くの市民会館で囲碁のイベントが行われる事になっている。ヒカルはそのイベントのメインとして公開対局に呼ばれ、無償で受けるお礼として参加チケットを数枚譲り受けたのだった。
そして今、あかりは「チケットが欲しかったら今週中に電話しろ。」というヒカルの言葉を忠実に守っているのである。

「サークルのメンバーも授業がない人は行きたいって。だから8枚欲しいんだけど・・・」
「ああ、いいぜ。いっぱいあるからさ。他には?」
「今のところそれだけ。みんな凄く楽しみにしてるよ。進藤ヒカルの生対局が見られるって」

クスクスと上品に笑うあかりに、ヒカルは鼻の頭を掻いた。
何時になっても、自分の対局を好んでみてくれるというのは嬉しいことだ。
自分の成長の過程と一つの節目をリアルタイムで観て貰うことが出来るのだから・・・

「あ、」

「?・・・ヒカル?どうしたの?」

突然の気が抜けた声にあかりは怪訝な声で訪ねてくる。
そんな声も右から左で、ヒカルは口をぽかんと開けたまま天上を見詰める。

「悪ぃあかり、いったん切るな」
「え?」
「チケットは俺がお前ん家に持ってくから」

いいか?もう暗いから外出るなよ?!と念を押してヒカルは上半身を起こすとそのまま勢いよくベッドから跳ね出し、愛用のデイバックの中から少ししわくちゃになったチケットを取りだした。
それを目の前で眺めていると丁度下から美津子の呼ぶ声が聞こえ、ヒカルは慌てて階段を下りていった。











暗闇に染まった中、近道とばかりに馴染みの児童公園を横断しようとしたとき、ブランコを挟んだ向こう側から近づく人影が見えた。
その正体を予測したヒカルは更に足を速めて人影との距離を縮めていく。

「あかり!」

呼ばれた華奢な人影は紛れもなくヒカルの幼なじみだった。
小学生の頃から長かった髪はそのままに、おさげだけをほどいた格好でヒカルに歩み寄ってくる。
向かい合うと彼女は大人びた顔をほころばせて嬉しそうに笑った。

「ばかっ・・お前家から出るなって言っただろうが」

出会い頭にそう怒鳴るヒカルに、笑顔だったあかりも眉を曲げ、負けじと反論してくる。

「だって!ヒカルったら直ぐ行くって言って、本当に早く来ることなんてほとんどないじゃない」

今日だってチケットのことすっかり忘れてたのに、と云うもっともな意見にヒカルは言葉を詰まらせて額辺りをぽりぽりと掻いた。

「今日は早く来たじゃんか」
「うん。ありがと」

益々居心地が悪くなって、ヒカルはポケットに押し込んだままだった紙切れをあかりに突きだした。

「ん。これチケット。」

差し出されたそれを受け取り枚数を確認すると、あかりは丁寧に折りたたんでバックの中へとしまい込んだ。

「ありがとう。」
「ん」

ぶっきらぼうに答えて、ヒカルはあかりの横を通り越した。
彼の様子に一瞬キョトンとしたあかりであったが、すぐさまそれが「送ってやる」の無言のサインだと知って苦笑混じりに彼の後をついていく。
夜の公園。
五月の新緑が闇に溶けて、その端々を街灯が煌々と照らしていた。
昔はよく遊んだブランコや鉄棒が視界を横切り遠ざかってゆくのを、彼の背中と見比べながら不思議な感覚に襲われる。

彼女はよく此処へ犬と散歩に訪れた。
とても人なつこい犬で落ち着きのない所など、目の前を歩く彼の小学生の頃にそっくりだった。
その為か彼と一匹は会えば何時でも取っ組み合うようにじゃれて自分達以上に仲が良かったようにも思える。
自分が木の枝を投げ、何故か犬とヒカルが競って枝を取りに行くという滑稽な場面も多々あった。
そうして陽も落ちてお腹が空いた頃、彼は気まぐれに「じゃあな!」と帰ってしまうのだ。
自分と犬を残して・・・

ザク、ザクと長い間隔を開けて聞こえる、彼の足が土を踏みしめる音。
あの頃はそれこそ人のことなどお構いなしに振り回していた手足が、今は遠慮がちに自分の歩幅に合わせて動かされている。
此方の気配を伺う背中に、
少し伸びた髪、
ゆっくり動く手足。
敵わないな、とあかりは思う。
時の流れとは、碁とは、ここまで人を成長させてしまうのかと。
眩しくて嬉しい反面、彼が自分の届かない場所へ行ってしまったようで少し寂しかった。

昔の公園で、昔の彼と戯れていた犬は、死んでしまった。
もう、どこにもいないのだ。
昔の犬も
彼も、
自分も。
きっと、今の奥底には支えとして存在するのだろうけれど。


「じゃ、オレ帰るわ」

玄関先の柵越しにポケットに手を突っ込んだままのヒカルが背中を向ける。
あかりは無意識に柵へと手をかけ、身体を寄せた。

「ヒカル!」
「?」

がんばって、は、違うと思う。ヒカルは今でも十分すぎるほどがんばっているのだから。

「応援してるから!みんな、ヒカルの碁を楽しみにしてるから」

漏れる玄関の光を受けて、目の前の彼は綺麗に笑った。
トクンと何かがこみ上げてきて、笑うことで切なさを誤魔化した。

遠ざかる彼の背中を、昔の自分からでは到底思いつかないような気持ちで、見送った。
それでももう、置いて行かれたとは感じなかった。















「ただいま」
そう短く言うと、ヒカルは後ろ手にドアを閉めた。
暖色の光に濡れた玄関を飛び越え、自分の部屋へと通じる階段をすり抜け右へ曲がるとリビングに出る。

「ヒカル!あんたまたご飯も食べずに・・・何処行ってたの?!」

敷居を跨いだ途端、美津子にかみつかれた。
見れば彼女は料理をすっかり終えて皿洗いをしている最中だった。
テーブルを見れば既に出来上がった料理が温かさを失って置かれていた。
参ったというようにヒカルは斜め上を見上げると肩を竦めてみせる。
別に、誰が答えてくれるわけではないのだけども。

「しゃねーだろぉ、だってあかりが」
「こんな夜遅くにあかりちゃんと会ってたの?!」

聞き慣れた幼なじみの名前に、美津子は信じられないと言った声で振り返る。

「ちげぇよ!オレは待ってろっていったのにアイツが・・・」

言いながらヒカルは入り口から一番近い椅子を引いて腰掛け、目の前の煮魚に箸を付ける。
「いただきます」を言う習慣はいつの間にか消えていた。

「・・だから急いでたんだって!」
「それならもっと早くに連絡しなさい。あかりちゃんも暇じゃないのに」
「オレはもっと暇じゃねぇよ!」

ダメだ。どうも話が噛み合わない。
やっぱり自分はこういう事を順序立てて説明する能力が著しく低下しているようだ。
盤上の石の運びなら幾らでも・・・それこそ100手先でも順序よく並べることが出来るのに。
はぁ・・・と不意に溜め息がでる。
どうしてこうも理解し合えないんだろうと。
自分たちは親子で、生まれた時からずっと一緒に居るはずなのに。
どうして解ってくれないのだろうか、と言う一方的な感情が湧き上がり、それが自分勝手な責任転換だと解っているから余計にどうしようもない。
また重苦しい溜息が出た。

「ヒカル・・・アンタ、疲れてるんじゃないの?」

洗い物を終えた美津子がエプロンで手を拭きながら歩み寄り、ヒカルの向かい側に座った。
遠慮がちに向けられる視線に何処かくすぐったさと懐かしさを覚える。
・・・懐かしさ?

「・・んな事ねぇよ。疲れる暇なんてないくらい忙しいし。」
「忙しいのに疲れないの?変な子ねぇ」

くすり。と笑った笑顔に、
箸を落としそうになった。
だって、その時の彼女の笑顔が、似ていたから。
アイツに。
子供じみた理屈をこねたとき、虚勢を張ったとき、少し我が侭を言ったとき、側にいたアイツが見せた顔。
ずっとずっと側にいた。
朝起きても、昼に学校や棋院へ言っても、夜寝るときだって、精神まで共有したアイツの笑顔に。

口の中に残った食べ物の破片を零さないように飲み込む。

「あ・・あのさ・・・」
「どうしたの?ヒカル」

首を傾げる彼女にヒカルはポケットからあかりの時より更にしわくちゃになった紙切れを取りだした。
伸ばすことにまで気が回らずにそのままテーブルの上に突き出す。

「・・・?なに、これ」
「・・チケット」
「何の?」
「オレの」
「は?」
「だからっ公開対局のチケット!オレが出るヤツ!!」

何が「だから」で結ばれるのか解らないが、それでもヒカルは殆どプロ試験を受けるとき並みの勇気を使って、その紙切れを突きだした。

「おじいちゃんに?」
「別にじいちゃんも来て良いけどさ、これはお母さんの!その・・・北斗杯・・・格好悪いトコばっかだったじゃん?だから・・」

とても真正面から言うことが出来ず、食べ終わった魚の骨を執拗に箸で弄くり廻す。

「今度は、そんなことないから・・・オレ、本当にこの仕事・・ていうか碁が好きで、何時だって勉強して、強くなってるから・・・前みたいに逃げたりしない。
お母さんには、きっと解らないこととかいっぱいあって、でもオレは話すの下手くそだから・・なんていうか、世界が遠くて、オレは何時も心配ばかり掛けてばっかりかもしれねぇけど・・・でも大丈夫だから。ずっとずっと、打っていくからだから・・・」

そんなオレを見に来て、
と。

言い終わった瞬間、長い長い息が零れた。
まるで30分間ずっと息を止めていたかのようだ。実際、止めた事なんてないから解らないけれど

と、突然美津子が立ち上がった。
ヒカルが驚いて顔を上げると、彼女はそれに倣うように自分も顔を背け、口を押さえたまま再び台所へと歩いていってしまった。

「お、お母さん?」
「やあねぇ・・この子ったらいきなり、本当にお前は何時もいきなりなんだから」

明るく聞こえるその声に、少しの震えと湿っぽさが混じっていると感じるのは、気のせいだろうか?

「知ってるのよ。アンタががんばってることは。ただ・・・面と向かって言われると、やっぱりびくりするわね。」

密かに一度すすり上げてから、美津子は息子へ振り返った。

「来週の水曜日、持久力が付くものを作らないとね。」

あ、

また、アイツの顔。



「ありがとう、ヒカル。」



そうか。そうだよな。

その時、ヒカルは唐突に理解した。
今まではきっと、アイツが母親の変わりだったんだろうと。
誰よりも近くに、誰よりも一緒にいたアイツは、自分が何も語らなくても全てを理解してもらえた。哀しいことも楽しいことも共に理解し、喜びを分かち合って共にあの笑顔で笑いあった。それが、とても気持ちよかった。
だからこそ、理解し合うことの難しさに気付くことが出来なかった。アイツには、理解されて当然だったから。
でも違うのだ。人は自分以外は全て他人で、血の繋がった母親にさえ、黙っていては何も伝わらない。
その事に、彼を喪って初めて気付いた。
共に理解する苦労を知った。
そして、理解されることの喜びを知った。
相手が他人であっても、心を開けばちゃんと理解してくれる。
身体も心も一緒だったアイツと同じ笑顔を向けて、微笑んでくれる。

いまやっと、自分が母親と向かい合えた気がした。
















薄いドア越しに聞こえる人々の声バックに、ヒカルは部屋に備え付けられていた姿見でネクタイを締め直した。
ワンポイントの入った紺色のそれを手前で交差させ、出来た輪っかに片方を通す。
シュッという乾いた音を立てれば綺麗な結び目が首元に出来上がった。
20秒足らず、といったところか。
プロの成り立ての頃はネクタイはおろかスーツすら着こなせなくて散々にいわれたものだったけれど。

上着を取ろうと振り返ったとき、以前止まぬざわめきの向こう側から見知った相手が顔を出した。

「あ・・・」

一瞬、ドアノブを引きかけた手を止め此方を見やったアキラは、何事もなかったかのように室内へ身を滑らせ、再び背後の雑音を閉め出した。
同じように姿見の前に立ち、ネクタイと、既に着込んでいる上着の乱れをチェックする。

「オレ、今すっげー精神統一してたんだけど」
「ならせめてドアノブに“精神統一中につき立ち入り禁止”とでも書いておいて欲しいね。」
「ホテルか病院かよ」

あらかたのチェックが終わったらしいアキラはヒカルのツッコミもそこそこに「よし」と一言零すと、ワイシャツ姿のまま椅子に腰掛けたヒカルに振り返った。

「・・・今日、来ているんだって?」
「あ?あかり達?」
「ああ、彼女たちも来ているってね。」

アキラは時折、ヒカルのお供(と言えば本人は不満がるが)としてあかりの大学に指導碁に赴いていたのだった。

「じゃなくて、お母さん。」

眉を寄せながら苦笑したアキラの台詞で、ああ、とヒカルは頷いた。

「じいちゃんと来てるってさ。」

曖昧に視線をそらしたヒカルの先には、すっかりプロらしくなった自分が鏡越しに此方を見やっていた。
嬉しいのか嬉しくないのか・・・はっきり言って、そういう次元じゃなく、緊張する。
まるで授業参観みたいだ。

そんな外見とは不釣り合いの感想に、可笑しくなって顔を歪めると、不意にガラス越しのアキラの眉がひくついた。

「何、笑ってるんだ?」
「余裕の笑みってやつ」

足を組み替え、組んだ手を後頭部に持っていけばアキラはふーんと対して興味もなさそうにきびすを返した。

「言っておくが、キミのお母さんがいるからといって手加減はしないぞ?」

ガチャリと音がすれば再び漏れ出すざわめき。

「そんなコトしてみろ、会場でお前をぶん殴ってやる」

満足げに口端をあげる彼に続いて敷居を跨げば、タイル張りの床に革靴のそこが打たれて小気味よい音が鳴った。

「ヒカル!」

二人の姿にあかりと其の大学仲間達が駆け寄り挨拶を交わす。その中で飛び交う激励の声。

「がんばってね」や、「応援しています」、「貴方の碁が大好きです」等。
自分をいつも勇気づけてくれるのはそんな声。
そんな声を掛けてくれる碁を愛する人々。

「ありがとう。」

最近は機械的にしか出なくなったその言葉は今日は特別に響いただろうか?

「じゃあ、私達、会場でお母さん達と待ってるから」

あわただしく動くスタッフの間を縫いながら彼等は会場の入り口へと向かった。
これから自分たちが一つの宇宙を創り出すその場所へ。
これからオレ達は、彼等に宇宙を見せるのだ。
二度と同じ形のない、美しいそれを。
そして、

「オレってさ、分かり合うのって苦手なタイプだと思うんだ」
「うん」
「お前も、そうだろ?」
「・・・そうだね」
「でもオレ鈍いからさ、分かり合えてないって事にもちゃんと気付いて無くて、何でも勝手に自己完結してたんだ。」

「でも、完結出来てたのはオレだけで、きっと他の人にはちっとも完結なんてされて無くって・・・」

「・・・」

「それで、唯一、絶対に分かり合えてると思ってたヤツは、消えちまった。」

「・・・」

「言葉にしなきゃ、ダメなときもあるんだな。オレ、この前初めて気付いちゃった。」

「オレ、お前と出会えて良かった。今日ここにいるのも、オレが居なきゃダメだってバカみたいに自信過剰になれるのも、毎日凄く辛かったり、しんどかったり、それでも絶対楽しいのも、お前がオレを追っかけて引っ張ってくれたからだよ。」


「ありがとな。」



相変わらずの仏頂面で、それでも静かに聞き入っていたアキラは、自分に向けられたその表情を凝視した。

「何だか、気味が悪いな。」
「なっ」

一瞬にして歪ませた顔の前を横切ると、アキラはズンズン前へと歩を進める。
徐々に小さくなりつつある背中を慌ててヒカルは追いかけた。

「ちょっとシツレイなんじゃね?オレすっげェ頑張っていったんだぞ?!」
「まあそうだね」
「まあって・・・」

オレの一世一代の告白(違)を「まあ」で済ませる気かコノヤロウ。
それはあまりにもあんまりなんじゃないかと迫る対局時間も頭から外れて、揺れるオカッパの目の前に立ち塞がろうとしたとき

「ボクも」
「?」


「キミに出会えて良かった」



ああ・・・


また、逢えた。




振り返ったその表情は。
あの時の懐かしい笑顔。
先日気付いた、自分を生み、育ててくれた美津子と、
自分と全てを共有させ、碁というかけがえのないものを与え、成長させてくれた彼の・・・



この笑顔が、今のオレを創ってるんだ。





それから先は、
一言の会話もなされずに。
それはとても心地良いもので。


でも、
厚く閉ざされた量扉を開け、舞台の袖から彼を見据えて歩み寄れば、
そこにはいつもの高揚感。


沢山の視線が注がれる中、ふと、その中に優しい視線を感じたような気がした。
更に増す感情の高ぶりは、高く響いた石の音に、振り切れて、
世界は宇宙に変わった。






碁は、孤独な世界だと誰かが言った。
実際に打つもの同士でしか解らない道がある、言葉がある。
対局の間は二人の世界。

それでも、
宇宙が数多くの星や星雲を抱き込んで、初めて宇宙と呼ばれるように、この宇宙を創り出すのも決して盤面を挟んだ二人だけの力ではない。

その二人が存在しているのは、紛れもなく彼等を支える人々のお陰。
その二人が打ち続けることが出来るのは、
孤独な碁の世界の中でその人を理解し、一人じゃないと寄り添ってくれる人がいるからだ。




佐為




オレは孤独じゃないよ。



お前だって、きっと今は、孤独じゃないんだろ?

彼が愛し彼を愛していた人々と、彼はきっと今、一緒にいる。
そしてあの綺麗な顔で優しくあの表情を浮かべて居るんだ。





対局が終わったら何て言おう。



キラキラと輝く盤面を見つめながら、ヒカルはまたあの笑顔が見たくて、思考を巡らせていた。

そして白石を一つつまみ上げると持ち替え、星に変えた。
自分を支える全ての人々の笑顔から出来たその星を、
広い宇宙に生み出した。
























自学自習より。

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