あ、少しまずいかな。と思った。

朝起きたら何となく鼻から喉に書けての気管が不調で、何かに引っ張られたようにいがいがした。
それでも気にせず手合いに出ると、打ち終わった頃には喉の不調に息の湿っぽさまで追加されて。
薄手のシャツの隙間に五月の風さえ肌寒く感じられた。
今日は他に予定はない。
対局者との検討もそこそこに礼を言って対局室を出、下駄箱の中から靴を取り出す。
多少乱暴に床へ落として踵を潰さないよう靴の端を引っ張り上げると、屈んだ頭が僅かにうずいた。

電車に揺られ、誰もいない家の玄関で形式だけの「ただいま」を云う。
まだ確かな足取りで廊下を渡ると、荷物の整理もそこそこに自室に入り、押し入れを開けて布団を敷いた。
もう使わないだろうと仕舞っておいた厚手の毛布も引っ張り出して、二重に敷いて暖を確保する。
踵を返して和室へと入り、タンスの奥の救急箱から薬を選んで水で流し込む。
ミネラルウォーターを取り出して少量の塩を混ぜると、小さめのペットボトルに詰め替えて自室に戻った。
枕元にそれと、氷枕も予備でつけ、軽く服装をくつろげてから体温計を脇に挟んで布団へと潜り込む。
それだけの動作がどこかだるい。
平日の昼下がりはやけに静かで隣室の古時計の音がコチコチと響いてくるようだった。
程なくして軽やかな電子音。
引き抜いて表示されたデジタル数字を見つめると37.2℃の文字。

やっぱり。

今から上がるか、それとも下がるかの初期症状だ。
ボクはため息交じりにそれを戻した。
とてももう一度救急箱まで立ち上がる気力もなくて、枕元のペットボトルと一緒に体温計を放置する。
このくらいの歳になればいい加減に自分の体調のおおよそも想像が付くというものだ。
最近寒暖の差がせわしなく動いていた所為だろうか。
体調管理も棋士のつとめだというのに、情けない。
身体の具合より、そんな当たり前の気候の変動で体調を崩してしまったかも知れない己の不甲斐なさに目眩がする。
それでもまだプロに成り立ての頃、必要以上の責任感で自分の体調など顧みず、例え熱が38℃近くても
取り繕った笑顔で手合いに出ていた頃よりは幾分もましだと思った。
そう思って、気分だけでも浮上させようと努力する。
そうして帰宅するなり、酷いときには対局が終わって数分も経たない内によろけて気を失いかけて、運が良いのか悪いのか、
そこを拾われ自宅へと搬送される車の中で芦原さんや緒方さんに怒られていた。
もう少し自分のことにも気を使え、と。
ぼうっとした意識の中遠い過去とも想える残像を思い描き、この分岐点にある熱が回復の方向へ向かってくれるよう自分を休めるしかなかった。

今日は、韓国の棋譜を並べようと思っていたのに・・・

再び溜め息を付いたとき、玄関から軽やかなチャイムの音が響いた。
嫌な予感がする。


「塔矢ーっ、今日午後暇だっただろ?一局打とうぜ〜」

最近のボクは、風邪の初期症状だけでなく、彼に関しての予感もよく働くようになっていた。
全く、不本意な方向でのみだが。

「塔矢〜?」

やけに間延びした声が朦朧とした頭を更にかき回す。
冗談じゃない。何でこんなタイミングで。
彼にこんな不甲斐ない、無様な自分の姿を見せるなど。
常日頃から頭をもたげるライバル心はどこの場面でも健在のようで、とりあえずボクは居留守を決め込む事にした。
にもかかわらず、彼は尚もチャイムを鳴らし、更にはガラス戸をバンバンバンと遠慮無く叩きだした。
・・・頭に響く。
たぐり寄せた布団の端を額の上まで引っ張り上げ、彼が諦めるのを待った。
やがて騒音は止み辺りは元通りの静けさを取り戻す。

(帰ったのか・・・?)

布団の中から耳を澄ませて様子を伺う。
すると、程なくしてさほど離れていない場所からガラガラと窓を開けるような音がした。

(?)

不審に思って少しだけ顔を覗かせるとそこには何故か天上ではなく、彼の顔が間近にあって

「わっ?!」
「だあぁぁっっ??!!!」

二人揃って飛び退いた。三メートルは飛び退いた。

「なっ・・・・何だよ塔矢っ。お前いきなり顔出すなよな!」
「そんなの知るか!というかキミはいったい何なんだ?!どうしてここに・・・勝手に・・・無断で・・!」

火照る頭と息苦しさでもう、何をまず聞いていいやら叱責していいやら解らなくてとりあえず叫んだ。
すると彼は何の悪びれたそぶりも見せず、だって玄関の鍵開いてたから。とさらりと言ってのけたのだ。
「お前病気で寝込んでるのにこの不用心さは考えものだぜ。」とご丁寧にボクに忠告をくれながら。

全く、本当に、冗談じゃない。

ボクは今、明日の手合いに病欠で情けない黒星を飾るかどうかの瀬戸際なんだぞ。
それをどうしてこんな常識知らずの碁だけはそこそこ強いヘラヘラ男に、邪魔されなければならないんだ。
彼の無茶苦茶な行動に怒りを募らせている間も、彼はボクの隣にどっかり胡座をかいて座り込み、勝手に部屋を見渡しては「相変わらずなんもねぇ部屋だな、つまんねぇ。」と言いたい放題文句をまき散らしている。
本当に勘弁してくれ。

「・・・進藤・・」
「ん〜?」

なるべくドスをきかせて呼んだつもりだったが彼には無効のようだ。

「帰ってくれ。」
「なんで?」
「見て解らないのか、ボクは今風邪をひいてるんだ。治している最中なんだ。」
「わかるよそれくらい」

本当に解っているのかいないのか。
そう答えた進藤は家から持参したらしいビニール袋をかさかさと漁り、真っ赤な果実を取り出した。
もうすっかり骨張り、碁打ちの手になった進藤の指がその瑞々しい果実をしっかりと掴んで僕の前に差し出してくる。

「リンゴ。じいちゃんの実家から送ってきた。一緒に食おうぜ。」

赤い果実がふっと浮き上がり、空いていたもう片方の手にパシリと当たって持ち変えられる。
間延びしない引き締まった音はそのリンゴが中身が詰まって美味しいものだということを告げいていた。
そういえば、今日は対局があったから朝ご飯以来何も口にしてはいなかった。
思い出せば身体は実に現金なもので、今まで追い出そうとしていた彼をその果実ごと引き寄せるような腹の虫が鳴った。
気まずく視線を斜めに逸らせば、彼は楽しそうにクスクスと笑い、「包丁はどこ?」と言って出ていってしまった。



しゃりしゃりと、不規則な音が部屋に響く。
それほど時間を空けずに台所から戻った彼は、平たいお皿数枚と果物ナイフ、フォークを二本用意して再びボクの前で胡座をかいた。
一番大きなお皿を引き寄せると、その上にリンゴを置いてナイフを入れる。
畳の上でやっているからか、微かな弾力が皿にも伝わるようで切りにくそうだ。
まな板でやればいいと思うのに、そう提案したらめんどくさいの一言で片付けられた。
・・・見舞いに来るのはめんどくさくないのか。
やっと芯を取り除くところまで行って何だか見ている方が疲れる。頼むからそのまま指を切り落としたりはしないで欲しい。
そんなボクの心配などどこ吹く風で、目の前の彼は持ち前の集中力を総動員してなにやら細かなことに格闘中だ。
下手に口を挟んで手が滑っても困るので反対側の中庭へ眼を向ける。
パソコンの隣で格子窓から辛うじて覗かせる緑の木々は風に揺られてさわさわと気持ちよさそうだった。
春と夏の橋渡しをするこの季節は生き物たちも活発で、壁の向こうで咲き乱れているだろうツツジの花を目当てに昆虫たちや鳥たちも集っているようだった。
更に遠くからは子ども達の笑い声。

なんだ、他にも音はあったんだ

先程まで自分の事でいっぱいいっぱいで何も気にする余裕などなかった。
そういえば今日の対局相手にはちゃんと断って来れたのだろうか。

後でもう一度謝っておかなければ、と想った時に横から進藤の声が上がる。

「おっし、むけたぞ。ホラ食え」
「・・・なんだこの剥き方」

平皿に乗せられたそれはいつも自分がみるリンゴとは似ても似つかなくて。
でこぼこの芯周辺はまぁいいにしても、この、中途半端に残された皮の部分は何なのだろう。
思った通りのことを口にしたら途端に進藤が怒り出した。

「失礼なヤツだなあ!それは耳!うさぎりんごって知らねぇの?」
「知らないよ。それに、兎というならもっと耳は長いはずだろう?キミのこれじゃあまるで飢えたキタキツネだ」
「キタキツ・・・・!」
「ああ、飾り包丁というやつか。それなら母は違うものを切ってくれていたよ。」

ちょっと貸せと、
最後まで言えずにパクパクする進藤には構わずにボクは握られたままの包丁と、切り残されていたリンゴを手にとって剥き始めた。
暫くすると進藤が我に返ったのか、病人がそんなことするなとわめき立てる。五月蠅いので無視をした。
赤い背中に左右から刃を入れては溝を作って切り離していく。更にその上にも同じように。
四、五回同じ事を繰り返すと出来た層を指でずらし、赤と白とが交互に覗くように整えた。

「なにこれ?」
「たぶん、葉っぱ」
「葉っぱぁ〜?なんだよそれ可愛くねぇ。」
「失敬だな。キミのキタキツネよりマシだ。」
「でも可愛さ的にはオレのが勝ってるじゃん!」
「あのね・・・」

いつから可愛さ勝負になったんだろうか。というより、どうしてボクまでこんな事・・・
思い出したように倦怠感が迫ってきて緩く頭を傾ける。
額を抑えて隙間から覗く彼の指にチラリと視線を走らせると、なにかリンゴとは違う赤い線が見えた気がした。

「・・進藤、」
「あ?」
「ちょっと、左手、見せてみろ」
「あ?ああ〜いや、なんで?」
「いいから見せろ!」

問答無用で背後に隠しかけた手を引き抜けば、人差し指の先に残る皮膚を裂いた赤い線。

「・・・随分慣れた手つきのようで」
「いや、リンゴなんて普通丸かじりだし?」

はははと笑って見たところでボクが欺されないことは彼が一番知っている。
ひとしきり一人で空回ったあとは徐々に声も薄れてきて、最後には一言、すいません。と項垂れた。
彼の手首を掴んだまま、ボクはさっと立ち上がり反動も借りて彼を立たせる。
そのまま和室へ引きずり込んで先程体温計を取り出した救急箱から絆創膏を探し出し、一枚ちぎって彼の指に巻いた。
もちろんその前に傷口は流水でしっかり洗って、消毒液もたっぷりつけて。
いい歳して「しみる」と喚かれようが構ったものじゃない。
一連の動作を終えた後にまた疲れを思い出し帰りは逆に彼に支えられながらフラフラと寝室に戻った。
まったく、馬鹿げた事をやっている。

「大げさ・・・」

枕に頭を預け、散らばる髪を何とか落ち着かせながら自分の指をマジマジと見詰める彼を見上げる。

「そういって、前に放って置いたら化膿して大変なことになっていたじゃないか」

何時だったか、右の人差し指を怪我したときに、彼はそのまま絆創膏もせずに素手のまま碁石を掴み続け
一時期本当に打てなくなったのだ。
碁石はお札と一緒だ。様々な人が無差別に触りまくり、ばい菌だって沢山付いている。
それをましてや石を打つときに一番触れる人差し指を怪我して、そのまま打つなんて。
傷口に菌をすり込んでいるようなものだ。
大きく腫れて終始疼き、とても石を乗せられたものではないからと、その一時だけ、彼は初心者の打ち方をした。
出会った頃の彼の打ち方。
碁の事などまるで知らなくて、それでも打ち筋だけは神の領域だったあの頃の-------------
宇宙を無邪気にかき回す、子どもの手。
テレビでその様子を見たときボクははっきりと怒りを覚えた。
無様な打ち方を曝しているからではない、ボクしか知らないあの時の彼を、未だに得体の知れない彼を、他の人たちがこのメディアを通して見ているというのが許せなかった。
勿論それは、ただ打ち方がそうなだけであって、あの時の彼ではないのだけれど。
ただのひとかけらも、彼を他人に渡したくなかったのだ。

「まったく、人の気も知らないで」

思い出しただけで腹立たしい。自分の独占欲の強さ。
頼むからこれ以上、キミに固執するボクを自覚させないでくれ。

半ばヤケのようにそう吐き捨てると、彼は暫く黙った後に同じように吐き捨てた。

「そんなの、こっちの台詞だっての」

「身体だるいくせにさ、お前ずっと我慢して。
自覚症状出るまではお前何云っても聞かないから黙ってたけど、ここ数日のオレの気持ち、分かる?」

すっげーむかついた。
と、言葉の真意を反芻するボクの前で彼は一気に畳み掛けた。
まて。余計に分からなくなる。
だってボクはちゃんと風邪をひく前に自分で気がついたじゃないか?
だから無理せず早々に帰宅して、自分で床を述べて薬を飲んで寝て・・・いや、そうじゃなくてそれより・・・
なにかもっと大切なことを見逃している気がするのだが・・・

「四日前から顔色悪いし息は浅いし目は赤いし、ぶっちゃけるけど棋譜にも出てたぜ。まだ誰も気付いてなかっただろうけど。
それでもオレは嫌なんだよ。そういうの、お前が他の奴に見せるの。でもってそう思ってる自分に気付くの。」

更に続いた彼の言葉はその目が横に逸らされることでやっと途切れて、その代わりにボクの頭はフル回転だった。
つまりは、そういうことなのか。ボクも彼も同じで。
全貌が何となく見えた途端、ボクはなにか違う熱で熱くなった。
おまけに目眩までぶり返してきて動悸まで追加された気がする。冗談じゃない。
顔を覆うようにかざした手の甲は同じように熱くて何の役にも立たず、すかさず彼が濡れたタオルを当ててくる。
暫くその手がタオルと残って、ひんやりと微かな重みが心地良い。
遠ざかろうとする彼の手に自分の手を乗せ、上から押さえて留まらせた。

「おい・・・」
「それ、一つくれ」

言い淀む彼の言葉を遮って、先程の歪なリンゴの欠片を指差した。

「・・・飢えたキタキツネなんじゃなかったのかよ」

未だ引きずりすねた口調の彼に、ないよりはマシだと軽く笑ってもう一度視線と手のひらで催促した。
渋々皿を手元に寄せると片方の手だけで器用に皿を畳に置いてフォークを摘んで一つを突き刺す。
艶やかな皮がはじけてシャクッと果汁が飛沫を上げた。
そのまま口元まで近づけられ、どうやらボクに持たせる気はないらしいと気が付く。
芯の近くに透明な蜜の詰まった瑞々しい色。彼が耳だと譲らないその部分の赤も張りがよくって鮮やかだ。
そして端にはそれにも負けない違った赤

「あ、」

彼がそれに気が付くと同時に、ボクはフォークの握られた彼の腕をとり、そのまま果実を近づける。
シャコッと一口囓った中にその赤色も含ませて。

「うん。美味しいな」
「お前・・・・」
「なに?」
「・・・いや・・」

なにかとても複雑な顔をした彼がおかしくて、笑いを抑えるのが必死だった。

「負けるよ、キミには」

僅かばかりに肩を揺らして、斜め上から覗き込む進藤を見やれば、訳が分からないといった風で首を傾げる。

「勘違いするな。碁の話じゃないからな。」

最後にそれだけ言い放つと、彼が引き上げた掛け布団の中に潜った。










あれ?初めに云いたかったことが云えてない(汗)
葉っぱの飾りリンゴってメジャーじゃないんだろうか・・・
我が家では普通に定番だったけれども。

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