「結婚しようか」



穏やかな午後の昼下がり。空気はすっかり秋の匂いを含ませて、薄く重ね着した服の内をサラサラと流れていく。
縁側の外にストンと降ろした足の下では、庭の脇に生えている楓から落ちた葉が、赤と黄色を混じらせた色を付けていた。

「・・・は?」

そんないつもの塔矢邸の風景をぼうっと見詰めていたヒカルは、同じようにぼうっとしていたはずの隣の男の台詞を聞いて首を捻った。
依然として庭を見詰めるその横顔は、肩すれすれで切りそろえられた髪に半分隠されている。
さぁっと風が間を通り抜けて、先程足下に落ちた葉と同じ形の赤が数枚横切っても、別に気にした風でもなくただ前を見詰めている。
何時も通りの表情だった。

(・・・聞き違い?)

しばらく隣の顔を凝視して、彼の毛先の微かなはね具合や意外と長い睫毛が何度か上下される様子を数えていたが、一向に本人が振り向く気配がないもので、ヒカルは先程聞こえたはずの変な台詞を幻聴として片付ける事にした。
もう一度足下に視線を戻す。昨晩降った秋雨が庭の土をしっとりと濡らして、落ち葉は瑞々しく輝いて、辺りは細かな水の粒に満たされているかのようだった。
そんな空気を一杯に吸って、両手を上げて伸びをして。
肩をぽきぽきと鳴らし終わったあとに、長い欠伸を1つしてそのまま前屈みに片肘を突いた。

どうも、馴れないことをすると眠くなる。いつもなら碁盤に向かって一局打ちきり、そろそろ、後から考えれば実にどうでもいい理由で喧嘩を始める時間なのに。
今日に限って何故か打たずに、こうしている。
中央の木々の色の変化を眺めて、赤とんぼがスイスイ滑るその羽根を通して、高く澄んだ空を見詰めている。

「どう思う?」
「あぁ?」
「だから、結婚。」

キミとボクの。と固有名詞をがっちり付けられたその台詞に、ヒカルは今度こそ色づく木々も空の高さもそっちのけで首を捻った。
どうやら面倒臭さを理由に幻聴で片付けることは許されないらしい。

「・・・なに?いつから日本はドイツの法律取り入れたんだ?」
「キミがそんなこと知ってるなんて、意外だな」
「じゃなくて!何いきなり」
「いや」

そういって隣の男は押し黙った。顎に手を当てていつものように考える姿勢。妙手に妙手で答えるときのような顔つきだっだ。

「・・・・・・いきなりだっただろうか?」
「おまえな・・・・」

碁が絡まないと何処かネジが飛んでいる隣の男は、純粋にそんなことを聞いてくる。
ヒカルは怒りを通り越して呆れて、更にその呆れも通り越して、最近ではこれがこの男の良さだと思えるようになってきた。
というか元々別に嫌いではないのだった。

「前から思っていたんだ。キミにも時々云わなかったか?こうして同じ場所にずっと居て、好きなときに碁が打てればと。」

片膝を立ててその上に腕を組んで、横目で此方をチラリと覗く。
この場所で二人の時にしかしない彼の仕草だった。
ああ、それは確かに言っていた。と。対するヒカルは額に当てていた手のひらを腰掛けた先の膝頭に添えて前を見た。
相変わらずパノラマのような庭には赤がはらはらと舞っている。

「それはさ、結婚じゃなくて同居っていうんだぜ」

大きな溜め息を1つ吐き、まるで小さな子どもに始めて聞かされた単語を教えるように、丁寧に優しく説いてやった。
塔矢アキラは語彙が豊富だ。だが、こういった方面では語彙が多いだけで用途の区別はさっぱりだった。
それを事あるごとに引き出しにきちんと整理してやるのはヒカルの仕事だ。

「いや・・・でも同居ではないんだ」

いつもはそれで引き下がるのだが、どうやら今回は「結婚」と「同居」の引き出しを入れ替えることに本人は少し納得がいかないようだった。
また訳の分からないことを云う、と長期戦を覚悟しながらそれでも根気よく相手の言い分も聞いてやろうとするのは自分の人の良さだとヒカルは自覚していた。
だが流石に、今回のことは厄介だ。
此処は早々にヨセて仕舞った方が良いのだろうかと、結局自然と碁に絡めてしまう自分も自分だろうが。

「じゃあもう結婚でいいんじゃね?」

譲歩半分諦め半分でそんなことを云えば、対するアキラは尚も不服そうに片膝に頬を付けたままヒカルへと顔を向ける。
目線だけは横に逸らして思考をたぐり寄せながら言葉を紡いだ。

「いや・・・・でも、それも違う・・・かな。ボクは別に進藤アキラになりたいわけでも、キミを塔矢ヒカルにしたいわけでもないし」
「てか根本的に今の日本じゃ出来ねぇよ。」
「うん、残念だけどね。」

全く話が噛み合わない。
したくないなら「残念」という表現はおかしくないか。


「知り合いの、結婚式に行ったんだ。」

もう、どれだけ話の軸がぶれようが折れようがヒカルは気にしないことにした。
片足を膝にかけたその先に載せた腕で頭を支え、さして興味がなさそうに顎を手のひらにくっつけたまま相づちを打った。
聞けば知り合いは同年代ほどの男性棋士だという。

「ふーん、そりゃさぞかし、相手の花嫁さんはお綺麗で」
「いや、花嫁はいないよ。男同士だ」
「・・・は?」

思わず顎が手から落ちた。

「海外で父と知り合った棋士なんだ。父伝手でよくネット碁を打たせて頂いていた。」

そこから親しくなって、何度か行洋にくっついて日本に来たこともあったらしい。
お茶を入れに席を立ったついでにアキラが持ってきたらしい写真を覗き込めば、その男は日本人とのハーフのようで、うっすらと白銀がかった短髪に灰色の眼が印象的な男性だった。清楚というイメージがよく似合う。
写真自体は海外で撮ったものだろうか。
端にレンガ造りの厳かな洋館を切り取り、此方では観ないような紅葉と少し似た形の葉を茂らせる木々をバッグに行洋と明子の脇で他数名の外国人と肩を寄せ合い微笑んでいる。
あぁ、相手の方はこっちだ、と、アキラの爪の磨り減った指先で示されたもう一人の人物も、先程の男性と同じくとても感じの良さそうな爽やかな笑顔を湛えていた。
どちらもとても・・・そんな感じには見えなかった。

「式は二人ともタキシードを着てね。新鮮だったよ。」

式の様子を語るアキラは、ただ素直に感心しているようだった。
日本ではまだ受け入れられづらいその状況が、小規模とはいえ公で出来るということ自体に抽象的な意味で感動を受けているらしい。
彼には、同性だからという理由での特別視は端から存在しなかった。
そういうところが塔矢アキラなのだが。

「お前って、男に告られても普通に悩むだろう」
「ああ、一度彼に告白された」
「はぁ?!」

今度は身体ごとずれ落ちるところだった。

「勿論断ったけれど。」
「あったりまえだ!」
「だって彼、ボクよりはやっぱり弱いし」
「そこかよ!」

湿った土に半ばダイブしかけた身体のバランスをヒカルは何とか取り繕い、もの凄いオーラを放って彼を見詰める、というか睨み付ける。
思わず社直伝の関西流ツッコミを入れてしまったが、もうヒカルはそれどころではなかった。
肩を落としてそれはもう深々と項垂れる。
漫画なら此処でカラスがアホーと鳴いても可笑しくないところだ。実際はヒヨドリのさえずりというこの場面には実に場に似つかわしくない情緒漂うものだったけれど。
流石に・・・これは・・・・・

「それで、どうせならオレ達も結婚しちゃおうって?」
「いや、ただ、どちらかというと、こっちに似ていると思ったんだ」

キミとボクが包んでいる空気というか、決意というか。
その台詞に、ヒカルは胸が潰されるようだった。

「一度、真剣に考えてみたんだ。もし仮に彼と結婚したらどうなるか」
「おいおい・・」
「そうしたら、例えば彼とその日や次の日に碁を打つことは想像できても、5年先や10年先に打っている姿はどうしても思い付かなかった」
「そりゃあ、10年も経ちゃ事情も変わるじゃん」
「だからキミにして考えてみたんだ。そしたら--------」
「・・・・」
「50年先でも、キミは盤を挟んだ向こう側にいた」


ボクのすぐ側に、
シワは増えていたけどね。



その時の

片膝を抱え込んで庭を見詰める彼の横顔に、
ヒカルは何かとても暖かくて切なくて・・・愛しい気持ちが溢れ出てくるような気がした。







---------“ずっとこの道を歩く”-----------




佐為が自分の碁の中にいると気付いたあの時。
一目散に向かったのは塔矢アキラの元だった。
エレベーターを待つ時間さえもどかしく、己の体力に任せて馬鹿みたいに駆け上がったその先で
息を乱しながらも堂々とあの言葉を宣言した時、
既に自分は彼にプロポーズをしていたようなものだったのではないか。
振り返ってみれば
碁以外はまるでダメで、佐為の幻影を求めて周囲の迷惑など顧みずに勝手に自分を追い、勝手に失望して勝手にまた期待して、打たないといえば死に者狂いで無言のサインを送り続けた。ここにいると。
そんな訳の分からない男と自分は今もこうして碁を打ち、それどころか今では碁を離した部分ですら隣り合って座っている。
この事実に、未だ嘗て何の疑問を持つこともなかった。寧ろ、この時間をそれなりに楽しんでいる自分がいる。


「彼も、これでよかったのだと思う。相手の方のことは知らないけれど、ボクと結婚するよりはよっぽど、彼等二人の未来を想像できた。」


ああ、コイツの言う「結婚」とは、そういう意味なのか




お茶を入れにアキラが部屋へと立ち去ったあと、だだっ広い庭に一人残されたヒカルは、はらはら舞い落ちる紅葉を見詰めてそう思う。
結婚はそう言うものでもいいのかもしれないと、初めて自分の引き出しを彼に合わせて半分だけ入れ替えた。

「塔矢」
「なんだ?」

熱いお茶と茶菓子を持って、再びヒカルの横に腰を下ろした彼に、ヒカルは最初と同じように庭を見詰めたまま言った。



「するか・・・・結婚。」



相変わらず庭に赤は舞い落ちて、秋の空は何処までも高くて。
澄み渡った空気を胸にいっぱいに吸い込んだ。


















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