思わず何時も通りの距離に入ってしまって、飛び退いた。
片付けられた机の上、今までコイツが広げていた詰め碁集はパサリと畳に落ちて、塔矢は今度こそオレに驚きの目を向けた。
その表情が拒絶されたようで、オレはもう、それ以上は動けずに突っ立ったままだった。




午後の打ち掛け、休憩室。
オレと塔矢は中押しで、開始時間五分前になっても急ぐ必要はなかった。
だけど逆に此処でのんびりしている必要もない。
和谷達と適当に喋って、いつもならさっさと帰って棋譜並べでもするところだけれど、空調の効いたこの部屋がやけに居心地がよくてそのままダラダラと居座ってしまった。
特に何をするでもなく障子から漏れる光と影の形を順に辿っていると、整然と並べられた机の一番奥に、見慣れた頭を見つけた。
「オマエも終わったのか?」
依然としてぼーっとした脳みそで後ろから訪ねると、アイツは一瞬だけチラリと此方を振り返った後、すぐに視線を元に戻して「ああ」と答えた。

「ふーん。相手、誰だった?」
「忘れた。」
「オマエなぁ・・・」

随分な物言い。この分だと相手の話も聞かずに、検討という言葉も遮って石を集めてさっさと出てきたに違いない。
本当にコイツは容赦無しだ。こっちが相手に頭を下げたくなる。

「それはさ、もしかしてオマエが負かされたからとか?」
「・・・本気でいってんの?キミ」

今にも射殺しそうな目で此方を睨んでくる。
まったく冗談ってもんが通じねぇ・・・
オレだってオマエが中押しで負ける側になるとは微塵も思ってねぇよ。
と、オレも大概失礼な事を思いながら、アイツの隣の机にまで歩み寄ってどかりと腰を下ろす。
肘を突いて何と無しに天井を見上げた。

ぱら、ぱら、と
こいつが紙を捲る音と、ブーン・・という空調機の音だけが聞こえてくる。
隣の部屋では、もう午後の対局が始まったんだろう。
じっと耳をすませば石の音まで聞こえてきそうだ。



ふと、数日前のことを思い出す。
それはいつもの碁会所で、いつものように塔矢とギャンギャン喧嘩とも検討とも付かない言い争いをしていたときだった。
8割方営業妨害を阻止するべくついでにお茶も運んできた市河さんが呆れ声を出した。

「何時も何時もそんなに顔をつきあわせて、仲がよろしいこと」

市河さんは、ほんの軽い気持ちでからかってるんだと解った。
でも、オレはその言葉に明からさまに動揺して勢いよくその場から飛び退いてしまった。
なんて不自然・・・
案の定、塔矢を初め、市河さんやその場に居合わせたおっさん達も怪訝な眼で此方を観ている。
だって仕方ないんだ。
そういうこと言われるの、初めてじゃなかったし。

最初は多分、和谷にだった。
ちょっとしたイベントの帰り道、元々堅苦しくない催し物で私服で参加していたこともあって俺たちはそのままマックに寄った。
四人席の隣同士にオレと和谷が座って、向かい側に伊角さん、で、その隣に奈瀬。
奈瀬は今注目の女流棋士で、その時のイベントでもメインって感じだったけど、思った以上に疲れたとマックシェイクをすすりながらぼやいていた。
話し始めればいくらでも話題は尽きなくて、最近の棋士の話から、近所のコンビニの話まで面白可笑しく騒いでいた。
オレは笑いながら、自分の分のポテトがなくなったことを理由に、隣の和谷から食料を確保しようと身を乗り出した。
その時云われたんだ。

「お前って、ちょっとスキンシップ激しいよな」
って。

直後のオレのポーズは、片腕を和谷の肩に回して遠ざかるポテトに和谷にのしかかる勢いで手を伸ばしている状況だった。
確かに、ちょっと暴れすぎたかもしれない。
でも、今までそんなこと言われたことのなかったオレはちょっと困った。
だって和谷とは院生時代からずっと付き合いがあるし、よくこうやってマックで食料争奪戦とかやってたけど別にその過程で身体が近づいたり腕を回したり取っ組み合ったりすることなんてどうでもなかった。
つうか、昔は和谷の方がオレに絡んできてたじゃん。
そういうと「だって俺たちもう子どもじゃないんだぜ」って一つ上なのを今更思い出したかのように兄貴ヅラして諭してきた。
そういえば、最近の和谷はオレの頭をがしがしやらないし、腕をまわしてのしかかっても来ない。
それどころか距離を適度に保っている。
伊角さんに聞いても、実はオレも想ってたとか言うし、奈瀬に至ってはそれを異性相手にすれば軽く犯罪だとまで云われて、流石のオレも可成り焦った。
オレ、あかりにそういう態度、とってなかったっけ?

「兎に角もうそろそろ大人になった方がいいかもな」

なんて、伊角さんは爽やかに言っていたけれど。
オレのこの癖はそう簡単に抜けるはずもなく、それでもそうだと自覚すると、今度はふとした拍子に相手の顔色を伺うようになった。
どうやらオレのこの癖は、親しい人限定に出はないらしく、気が付けば(世間的には)ちょっとどうだろうという相手のプライベートな空間をいとも簡単に侵略していた。
すると当然、嫌な・・・困ったような顔をしている人がいて。
でもオレにはその「プライベートな距離」がどうしても分からない。
そしてそれも当然だと思う。
いわゆる思春期って云われている時期、自分と他人の違いを意識するどころか、常に佐為っていう幽霊に精神を共有させていたんだから。
もう、これ以上ないって程のプライベートをされけ出していたのと同意義の状況下で育ったオレには身体を密着させることなんて普通だった。
お陰でオレは常に自分の癖を直すよう、気を使いながら生活をするハメになった。
それで、最近は行動する前に、相手によって半径何メートル以内には近づかないようにしようっていう「接近禁止距離区域」を設けるようになった。
おかげで少しずつ、普通の距離を保てるようになってきたんだけれど。

ところがアイツと言い争ってるときはそんな気遣い、何処かにぶっ飛んでいるみたいで。
市河さんに言われてふと正気に戻ったオレは、明らかにアイツの顔が近すぎて、互いの前髪が既に混じり合ってることに気付いた。
やばい。
和谷や奈瀬なら冗談でも済ませてくれるけど、コイツの場合何でも真に受けるから怒鳴られて、挙げ句の果てに気持ち悪いとか云われたらお仕舞いだ。
そう思ってさっと飛び退いたんだけれど、コイツは特に気にする風でもなく、ちょっと怪訝そうにしただけでまた席に座って石を並べ始めた。
だからオレもさほど気には留めなくて、時々同じように顔をつきあわせたり身体を近づけては我に返って飛び退ける、といった状態が続いた。



そして、今回も。



--------ヒカルは本当に学習能力がないですねぇ-----------

虫も殺さない笑顔で、結構きつい事も言ってくる、恐らくこの癖の原因であろう幽霊がクスクスと優しい笑い声を漏らすのが聞こえた気がした。
そうだよなぁ、きっとそう云われるんだろうなぁ。
でも、オレにはそれが普通なんだもん。第一、気持ちいいじゃん。そういう、“ココロを許す”っての?
それとも、アイツの事があってから、無意識に身体があることを確かめに行ってるだけなのかなぁ。


(・・・帰るか)

何だか段々、感傷的になってきた。
こんな事ならさっさと家に帰って棋譜並べでもした方が良さそうだ。
第一、コイツが隣にいる現状で佐為の事を思い出すのも罪悪感がある。まだ何も言ってないし・・・

「なにか、ボクに隠し事でも?」

立ち上がったその時に、タイミングを見計らったように塔矢が口を開く。
なんだよ。今までずっと仏頂面で本見てたくせにさ。
しかも言ってることがいくらか的を得ているもんだから、オレは対応が少し遅れた。

「・・・別に?ただちょっと今日、用事あっから」
「用事?」
「うん、用事」
「ボクから早く離れたいっていう“用事”かな?」
「・・・・・・」


「進藤・・・」


二の句が継げずに畳の目を睨んでいると呆れたように塔矢が呼んだ。
そんな声、出したいのはオレの方だっての。
何でお前はそうやって、いっつもオレが聞いて欲しくないことを聞くんだよ。

「お前には・・・関係ない」
「あるよ。ここ最近、一体何が?言ってくれなきゃボクはさっぱり・・」
「関係ないって言ってるだろ!!」

ダンッ!、と
一気に縮んだ相手との距離。
右手はコイツのすぐ脇の机の上、左手はコイツの胸倉を鷲掴む。
それでもコイツは巻き上げた風にも、オレの声にも微動だにせず、切りそろえられた髪の数本がはらりと舞っただけだった。
真っ直ぐに見詰められる瞳。微かに漏れるコイツの息。凄く近い。
はっとして、オレはまた自分がやってしまったと気が付いた。

「・・・・っ!!!」

思わず何時も通りの距離に入ってしまって、飛び退いた。
片付けられた机の上、今までコイツが広げていた詰め碁集はパサリと畳に落ちて、塔矢は今度こそオレに驚きの目を向けた。
その表情が拒絶されたようで、オレはもう、それ以上は動けずに突っ立ったままだった。







どのくらいそうしていただろう。
初めに見た障子の影は少ししか移動していないような気がする。それでもオレにはそれが凄く長い時間に思えた。

「・・・わりぃ」

やっと出てきたのはそんな言葉で、どう考えても言う時期が遅すぎる。

「いや・・・ボクの方こそ、すまなかった。詮索し過ぎだな・・」
「そんなことっ!・・・」
「最近、どうもキミがボクを避けている気がしていたから。」
「それは・・・」
「思い過ごしなら、いいんだ」

そういって笑った塔矢の顔は、全然「いいんだ」って雰囲気じゃなくて-----------

どうしよう
どっちにしても、嫌われてしまうんだろうか。
近付き過ぎても、それが怖くて離れ過ぎても。
ヒトの距離は一体何センチが最適で、何もかもが上手くいくって言うんだろう。
そんなもの一切なくなって、今目の前にいるコイツと解け合えたなら楽だろうに。
アイツと、みたいに・・・

いよいよ切羽詰まってきて、目の前に水が貯まって余計に焦る。
震えそうになる身体を押さえて俯くと、霞んだ視界の端にあった塔矢の踵がふいに動いて空気も変わった。
ああ、出て行っちゃうのかなぁって、当分は碁会所にも行きづらいかなぁなんて、眼から水が零れないように必死になりながらも考えていたら、つま先がどんどんオレの視界に入ってきて
「?」って思ったときにはコイツに抱きしめられていた。
引き寄せられた反動でオレの額は塔矢の肩にこつんと当たって、涙が数粒こぼれてコイツのシャツに染みこんだ。
トクトクトクと体内の音が聞こえてきて、ふわりと石けんみたいな匂いが漂う。
コイツの音と匂いだった。
間近で聞こえてくる音と匂いにオレはゆっくり息を吐いた。凄く気持ちいい。

(アイツともずっとこんな距離同然だったけど、音も匂いもしなかったもんな・・・)

もっと音や匂いを感じていたくて、鼻先を擦りつけるようにしたら、コイツの回した腕に少し力が入った。
その圧迫感も何だか安心できて、暫くそのままぼーっとしてたんだけど、ふと今、どうして自分がこういう状況になったのか疑問が湧く。
というかこの状況自体が問題ありだとようやく気付いた。

まてまてまて、これはオレの自主設定した「接近禁止距離区域」じゃん。
マズイだろ。塔矢気持ち悪いって思っちゃうよ。
そう思ってオレとコイツの身体の間に手を入れてやんわり離れようとしたんだけれど、塔矢はそれを許さないみたいに更に腕に力を込めて抱き寄せてくる。
更に音と匂いが強くなった。しかもコイツ見かけによらず結構体温高ぇ・・
なんかよくわかんないけど、いいのかな、本人嫌がってないし。
良いんだろうな、と押し戻そうと上げていた手をだらりと下ろしてまた頭をグリグリなすりつけた。


多分ずっとそうしてて、オレ達は一言も喋らなかった。
そしたら隣から、パタパタと何人分かの足音が聞こえてきて、オレ達はやっとお互いから離れて、目を見詰めた。

「・・・あ・・・すまない」
「いや・・・」

何故か二人とも顔が火照ってて、意味もなく身体は半分仰け反って構えてて、端から見たら絶対異様な光景だ。
そこへ対局が終わったらしい人たちが襖を開けて入ってきた。
晴れやかな顔をした人と、苦い顔をした人が同じ数ずつ、各々の荷物を背負ってまた休憩室を後にしていく。

「オレたちも、帰る?」
「そうだな」

とりあえずこの微妙な空気を何とかしたくて、部屋の隅に置いていたカバンを引き寄せる。
アイツも黒いカバンを手に提げて、同じように黒い革靴を履いて部屋を出た。

結局、廊下でも、エレベーターでも、さっきの事については何も云わなくて、
次に言葉が出てきたのは棋院から出たときだった。
自動ドアを潜った瞬間、むわっと初夏の熱い空気が身体を包む。

「あちぃ・・・」
「口に出して言うからだ」

バサリとこっちの言葉を切り落とす様子は、既にもういつもの塔矢アキラで。
一体、休憩室でのあの時間は現実だったんだろうかと疑いそうだ。
それでも

「キミ、これからの予定は?」

訪ねながら前を向いて風を切る。

「特にねぇな」
「じゃあ、今から碁会所だな」
「決定済みかよ」

まんざらでもない風で答えて、コイツの隣を歩く距離は、もう互いの空気も共有するほどで。
体当たりで迫ったオレに、楽しそうな笑顔を向けて、優しく肩を叩いてくれた。











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