眠い。
ヒカルは既に何度も舟を漕いでいた頭をもたげ、ベッドの脇にある時計を見た。
午前10時30分。あと少しで、頼まれていた指導碁に向かわなくてはならない。
それも相手はヒカルがプロになってから今までずっとお世話になっているお得意様で、こんな状態で行くなど失礼極まりないのだけれど。
それとも、それだけ慣れてしまったという事なんだろうか。
回らない頭でいい加減な理由を当てつけながら、半分以上閉じた眼をこすりつつ欠伸混じりでネクタイを締める。
続いて部屋着を脱いで、Yシャツと、その上からスーツ・・・
二回ボタンを掛け間違えた。




「・・・キミ・・・やる気がないなら帰ってくれないか?」

全くもって心外だというオーラ丸出しで、アキラが言った。
その後すぐに鳴った碁石の音にヒカルは慌てて顔を上げる。
途端に口の端から何やら生暖かいトロリとしたものが伝ってきて、自分がよだれを垂らすまで爆睡していたのだと初めて知った。焦りと恥ずかしさが同じ割合で襲ってくる。
顔を真っ赤にしながら袖を使うヒカルの様子にアキラは一つ溜め息を付くとカウンターに手をかざして、市河にコーヒーのお代わりを申し出る。
勿論、ヒカルの目を覚まさせるためだ。

「ありがとう・・・」

程なくして届けられた熱いコーヒーに口を付け、ほろ苦いそれをこくりと飲み込む。
先程まで眠っていたせいか、半ば麻痺した舌にぴりりと響いた。

「キミ、最近おかしくないか?顔を合わせるたびに眠たそうにしているだろう」

同じく一口カップを傾けたアキラが、静かに問うた。
どこか具合でも?という本気で心を配った言葉に、ヒカルはただ申し訳ない気持ちで押し黙るしかなかった。

具合は悪くないはずだ。この前受けた健康診断でも特に何とも言われなかったし。
ご飯も普通よりもよく食べれば戻すこともないし、気分だって悪くなったり倒れたりしない。
全くもって、健康そのものだと思う。
ただ、最近異様に眠いのだ。
朝でも昼でも、それこそ、大人としては十分すぎるだろうという睡眠を採っても、眠くなる。
仕舞いには今のように碁を打っている最中でさえ頭がぐらぐらと揺れて意識がプッツリと切れてしまう始末だった。
それも他ならぬ塔矢アキラが相手だというのに

初めのうちはそのヒカルの横暴な態度を観て、問答無用で口論に陥り、碁石を片付けて「帰る!」「帰れ!」の応酬で終わっていたものも、
今となってはすっかり慣れて、アキラは溜め息を付きこそすれ、どこか諦めたように市河におかわりのコーヒーを頼むことが常となっていた。
そしてヒカルが益々申し訳なく思うことも。

「悪い・・・本当に・・・」
「謝るなら、一度くらい丸々寝ないで付き合って欲しいね」
「・・・・・悪い・・・」

それ以上は、何も言えない。
ハムスターのように縮こまってしまったヒカルの様子に、アキラはまた一つ溜め息を付く。

「・・・まぁ、悪気はないみたいだしね。これで夜中までテレビゲームをやっていたから、なんて云われたら怒鳴るだけじゃすまいけれど」
「だから!そんなことないって、ちゃんと寝てるし、食べてるし・・・」

ヒカルは言葉に詰まる。本当に、そんなつもりはないのだ。今だって気持ちは打ちたいし、起きていたい。
他ならぬアキラとのなかなかとれない大事な空き時間だ。
一局でも多く打って一歩でも神の一手に近づきたいのに・・・・自分は一体どうしてしまったのだろうか。
やりきれない自分への呆れと怒りで思わず膝の上で握った手が震えてしまう。
ぎゅっと奥歯を噛みしめて段々自分が情けなくなる。

「・・・それ、本当に眠っている?」
「え?」

突然のアキラの指摘にヒカルは気の抜けた返事を返した。
ぽかんと口を開けたまま見上げる顔に、アキラは尚も真剣に顎に手を添えながら聞いてくる。

「前に、聞いたことがあるんだ。自分は寝ているつもりでも、その眠りが浅くて本当は全然眠れていない状態が続いていることがあるとか・・・
すると、何時間眠っても寝足りなくて、昼間でもどこかぼうっとしてしまうらしいよ」

夜中に突然目が覚めることは?とまるで近所の医者のように質問を寄越してくるアキラはどこか確信を得たように腕を組んだ。
ヒカルが、その質問に「そんなことはない」と自信をもって言えない態度を見たからだ。
思い返せば・・・
ヒカルはこれまでの自分の睡眠について振り返ってみる。
寝付くのは早い。近頃では特に仕事が入らない限り、午後10時には床に就いている。
そして翌日、仕事がなければそれこそ昼過ぎまで寝過ごし、仕事のある日はセットされた目覚まし時計によってギリギリの時間にたたき起こされるまで寝転けていた。
その為か前日に用意した食パンを口にくわえて家を出るという何処かの少女漫画の主人公のような事態も珍しくなかった。
食事すらそれなのだから、外出した後の部屋の散らかりようは言わずもがなである。
何という堕落した生活だろう。

「何か必要のないところを考えていないか?」

アキラの指摘に慌てて思考回路を夜へと戻す。どうやらまた睡魔が襲ってきたようだ。
考えている最中でさえこれでは埒が明かない。ヒカルは力強く首を振った。

「あ、」
「なんだ?」

ヒカルは思いだしたように間抜けな声を発した。
続いて「オレ、そういえば最近観ていない」という目的語を完全に欠落させた言葉を紡いで。

「何を?」
「夢」
「・・・・夢?」
「そう、夢」

一言を何度も繰り返して、そうだそうだと納得する。
ヒカルは元来、夢をよく見る方だった。
それは大概幸せな夢で、佐為に扇子を託されたのも柔らかな心地良い夢の中での出来事だった。
ふわふわキラキラと輝く場所。それがヒカルの夢に対するイメージだった。
ところが最近、それこそこれでもかと云うほど惰眠を貪っているはずが、ヒカルはここのところ一度も夢を見たことがなかったのだ。
床について眼を閉じて、1秒後には目覚まし時計の音が鳴り響いているような状況が続いていた。

「でもさ、夢って、それこそ眠りが浅いときに見るもんなんじゃねぇの?」

だからつまり、自分が夢を見ないと言うことはそれだけ熟睡できているという事なのではないかと、前に見囓った健康番組の知識を引っ張り出した。
レムだかノンレムだかは忘れたが・・・

「うん、一般的にはそうだろうね。でも、こうも考えられないか?」

またもや思考が別のところへ飛びかけたヒカルとは真逆の、明瞭とした声が言葉を続ける。


“キミは、夢を見るはずの浅い眠りにさえ落ちていない”


なんとも恐ろしい言葉をさらりと言ったアキラに、ヒカルは摘んでいた石をぽろりと落とした。










「・・・何?つまりはオレが夢遊病だって?」
「そこまでは言ってないじゃないか」
「言ってるようなもんじゃん!だってオレ・・・・」
「落ち着け、進藤」

とうとう自分の事態が解らなくなったヒカルの取り乱し様を、アキラは文字通り落ち着いた言葉で遮った。
軽い指の動きでコーヒーを勧められて、ヒカルが勧められるがまま一口含むと、温度が下がった分苦さが増したような気がした。
そうして、少し醒めた頭で考え直す。
自分は本当に寝ている間・・・寝ているとこれまで思い込んでいた間、記憶がなかっただろうか?
本当は自分の知らない内に自分の身体が這いずり出て、部屋中や、屋外を徘徊していたのではないだろうか。
そういえば朝起きたとき、妙に身体が疲れているときがなかったか。
足の裏にざらついた何かがこびりついていることがなかったか。

分からない。

分からないけれど、言われてみると全ての疑問が現実に起こっているような気さえする。
ヒカルは知らずカタカタと震えだした。

「進藤?」

俯いていた身体を怯えるように抱き込むヒカルをアキラは静かに見詰めた。
そっと片手を伸ばして今だ震える肩に手のひらを置けば、びくりと一つ、大きく跳ねて顔を上げる。
アキラは瞬時に悟った。
彼は何かを思い出したのだ。
不安げに揺れる焦点の定まらない目は、ヒカル自身が自覚しない何らかの恐怖や孤独の表れ。
こうして何度も盤を挟み、時にはプライベートでも付き合う間柄になって自然と見る回数も増えた。
碁会所で、棋院で、街中で。ふとした瞬間、本人も自覚しないところで動きを止め今のように瞳を儚げに揺らすのだ。
それは、彼が「いつか話す」といった何かに心の奥底で結びついている----------
少なくとも、そう、アキラは理解していた。


「・・・進藤、今夜、キミ、予定はあるか?」
「・・・・・・え、あ・・・別に何もねぇけど・・・」

反応の鈍いヒカルの応答に頷くと、アキラは中途半端に並べられていた一局を無造作に崩し始める。
ガシャガシャという普段の彼からは聞くことのない荒っぽい音にヒカルの意識が身体に戻る。
次々と白石と黒石を選り分ける指先を、ワケも分からず見守っているとアキラが手伝いを催促する。
ようやっと同じ盤上に手を置きながら口を開くと、アキラは依然として視線を碁石に落としたまま言い放った。


「今夜、キミの家に泊まるよ。」

確か数ヶ月前から一人暮らしだろう?と念押しするアキラの声に、ヒカルは今度こそ動きを止めた。












続いていそうに見せかけて全く先を考えてません(汗)

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