TOKYO FANTASIA






 覚えているのは母の長い髪。
 腰まで届く長い髪に、小さい頃はよく触れていたことを時々ぼんやりと思い出す。
 美しい黒髪が母の背中で豊かに揺れている風景は、ごく当たり前の日常だった。

 ある日を境に髪をばっさりと切った母の清清しい顔もよく覚えている。
 子供ながら、あまりの変化に驚いて尋ねてしまったものだ。
『お母さん、どうして髪を短くしたの?』
 母は微笑み、屈んで目線を合わせて頭をそっと撫でてくれた。
『お母さんはね、願を掛けていたのよ』
『がん?』
『そうよ。お母さんのお願いが叶ったから、身も心も軽くなったの――』
 まるで魔法の呪文のように、母の声は不思議な響きを持って幼い耳をくすぐったのだ。
 母の微笑を眼前に見つめ、子供ながらきれいだなあ、とぼんやり瞬きしていたあの日。
 髪を切った母はとても美しく見えた。

 その日から、母が髪を伸ばすことはなくなった。
 今ではすっかりショートヘアに慣れてしまって、人に会う度に驚かれる、なんてこともなくなった。
 あれから何年経っただろう。
 やり場のない思いを胸に、いつしか髪を伸ばし始めている自分がいた。






 ***





「うっ……」
 後頭部に感じる鈍い痛みと共に、アキラの身体はぐいっと後ろに仰け反っていた。
 咄嗟のことで踏ん張ることもできず、何が起こったのかも理解できない。分かるのは、誰かに引っ張られているということだ――腰まで届く長い髪のひと束を。
 幸い力はそれほど強くなかったため、そのまま床に仰向けに倒れるなんてことはなく、仰け反りながらもアキラは後ろを振り返ることができた。ちょこんと立っている小さな子供と目が合う。見たところ未就学の年齢だろう。思わず眉を垂らしながらも営業スマイルでにっこり微笑んでしまったアキラを、彼は不思議そうな顔で見上げていた。
「……離してくれないかな?」
 アキラが優しくお願いしてみても、彼は上目遣いで微かに首を傾げるのみだった。
 その手はしっかりとアキラの髪を掴んでいる。無造作に、かつ乱暴に掴まれたその髪はぎっちりと彼の指に絡まっていた。
「まあまあ、すいません!」
 慌てたようなかん高い声を発しながら、母親らしき女性が駆け寄って来た。女性は子供を後ろから抱きかかえるように、アキラの髪を掴んでいる手を取って指を解かせる。 
 アキラがほっとしたのも束の間、きゃっと女性は小さな悲鳴を上げた。
 何事かと髪を見ると、黒くて艶やかな髪の毛束に何か小さなものが絡まっていた。
 アキラが毛先を摘まみ上げて見てみると、べったりと毛を巻き込んだガムの塊だった。
「ああ……」
 思わずため息混じりに落胆の声を漏らしたアキラに、青ざめた女性が恐縮しきりで頭を下げる。
「す、すいません、塔矢先生! うちの子がとんでもないことを……!」
「……いえ、子供のしたことですから。気になさらず」
 アキラは苦笑いで首を振る。
 とはいえ、これはそう簡単には取れないようだ。
 頭を下げ続ける女性を宥め、近くの関係者に理由を話し、アキラはイベント会場を出てトイレへと向かった。
 子供たちがひしめきあう会場をアキラが颯爽と横切ると、小さな指に碁石を挟んでいる彼らは羨望の眼差しでその行方を追う。腰に届く長い髪がゆらゆらと美しく揺れるその背中はすでに彼のトレードマークになっていた。
 子供向けの囲碁大会でスタッフを任されていたアキラは、世界に名高い塔矢行洋の一人息子として注目を集める若手棋士の筆頭だった。


 タイトル戦の本戦ではすでに常連、タイトルこそ獲得していないものの挑戦者の椅子には何度か座ったことがあり、タイトル保持者になるのも時間の問題だと言われ続けて数年。
 今年の師走には二十一歳になるアキラにとって、これまで常に付きまとっていた「最年少記録」という言葉から卒業しなければならない時期がすぐそこまで来ていた。
 実力はあるが、今一歩が足りない。――そう評価されることが少なからず増えて来た昨今、アキラはトイレの鏡に映った自分の顔を見て漏れなくため息をつく。このため息がすでに癖になってしまっていた。
 整った顔立ちは穏やかで、物腰も柔らかく周囲からのウケも良い。腰まで伸びた長髪に顔を顰める人間がいない訳ではなかったが、優雅な立ち振る舞いと生来の礼儀正しさで棋院のお偉方からの小言を切り抜けていた。
 それもひとえにお愛想笑いの賜物だろうと、自嘲気味な笑みが浮かんで来る。小さな子供相手でも咄嗟に笑顔を作ってしまうのだから、防衛本能というものは恐ろしいものだ。
 ガムの絡まった髪を摘んで、今度は少しニュアンスの違うため息を漏らす。相当強く握り込まれてしまったのか、その部分だけ大きな毛玉になったようにガムがしっかり髪の毛を噛んでいた。
 囲碁大会に参加している子供の弟といったところだろうか。アキラの長い髪が珍しかったに違いない。これまでも子供に不思議そうな顔をされたことはあるが、こんなふうにガムつきで引っ張られたことはなかったから油断していた。
 手洗いの蛇口を捻り、流れる水の冷たさを指先で確認して、アキラはそっとガムの絡まった髪を浸した。冷たく冷やせばガムもとれるかと踏んだのだ。
 しかし想像以上にがっちりと絡まったガムは、なかなか髪から離れてくれない。少しずつ、剥がすというよりは半ば千切るようにして、徐々にガムの塊は小さくなっていったが完全に取り切るのは難しいようだ。
「……まいったな」
 アキラは口唇を噛んで肩を落とした。
 これは少し切らなければならないかもしれない。
 ガムが絡まった場所は毛先から近く、数センチ切るくらいで見た目には以前と変わらなく映るだろう。
 だがしかし。
「……、切る、か……」
 歯切れ悪く呟いたアキラは、ガムのこびりつく髪を見つめて再びため息をついた。
 小学生の頃から伸ばし始めていた髪の毛は、その後ほとんど切られることがなく、気付けば女性と間違われるほどの長髪に成長してしまっていた。


 最初は冗談のつもりだった。
 母親の言葉を覚えていたせいかもしれない。
 願掛けなんて、そんなものに頼るつもりはなかったのだけれど、髪が見た目にも明らかに長くなってくるとますますハサミを入れるのが躊躇われて、ずるずると伸ばし続けてしまっていた。
 本気で願掛けをしているつもりはない。しかし、時折人に髪が長い訳を尋ねられた時、面倒だから「願掛けです」と答えるようにしている。その内容は御利益がなくなると困るから内緒だと付け加えて。
 そんなふうに数年を過ごしていたせいか、髪を切ることに酷く戸惑っている自分がいる。
 ほんの数センチ切るだけのことなのに。

『お母さんはね、願を掛けていたのよ』

 穏やかな母の声。
 母の願いが何だったのか、尋ねてみたことは一度もない。
 でもきっと母にとっては大切な願いだったのだ。アキラの覚えている限り、腰に届く長い髪をそれはそれは大事そうにケアしていた母だったのだから。
 きっと願いが叶うまで、決してハサミなど入れなかったに違いない。
「……別に大した願いじゃない」
 誰に聞かせるでもなく呟いて、アキラは手の施しようのない毛先から指を離した。いつもならぱらりと綺麗に背中へ戻るその髪の一房は、今は無惨に絡まったままだ。
 ――大した願いじゃない。
 もう一度心の中で呟いて、アキラはきっと顎を上げる。
 鏡を見ながら、念のために持ち歩いているゴムで髪を束ねた。背中を向けて振り返り、後ろ姿を軽く確認する。あのまま下ろしているよりはガムが目立たなくなっただろう。
 そうしてアキラはトイレを出た。そろそろ会場に戻って仕事を再開しなければ、関係者にも迷惑がかかる。イベントの終了後にどこか美容室にでも立ち寄ろう――……
 最後の迷いを振り切るように、風を切って歩くアキラの毅然とした横顔はすれ違う人々から羨望の眼差しを受けた。


 大した願いじゃない。
 いや、……もうきっと願いは叶わない。
 これだけ伸ばしても現れなかったのだから。きっとこれからも現れることはない。
 だからもう、いいんだ……






 ***





 ――美容室ですか? なんでまた急に……あらら、やられましたねえ。確か大きい通りに出たら若い人向けの美容室があったと思いますよ。




 イベント会場のスタッフに尋ねると、何とも大雑把な返事が返って来た。
 小さな街ではないから何とかなるだろうと、「大きい通り」を目指していざ歩き始めたのだが――どうやら方向を間違えたらしく、行けども行けども辺りの景色はひっそりとした住宅街から抜け出てくれない。
「……まいったな」
 一人道端で呟き、空もすっかり暗くなって、これはタクシーを拾うしかないなと辺りを見渡した時。
 ふと、通りの向こうに見覚えのある三色がちらついた。赤、青、白のトリコロールカラーがクルクル回るサインポール。
 ――なんだ、あそこにもあるじゃないか。
 理容室か、美容室か。物心ついた時から髪を切ることがなかったアキラにとってはその違いもよく分からず、またどちらでも問題はなかった。
 民家に紛れていることからあまり大きな理容室ではないのだろうが、毛先を切ってもらうだけなのだからどんなところでも構わない。アキラはふうと安堵の息をつき、夜の闇でも鮮やかな三色のポール目指して歩き出した。

『お母さんのお願いが叶ったから、身も心も軽くなったの――』

「……」
 別に数センチ切るだけだ。
 身体も心も軽くなりはしない。
 アキラは結んでいたゴムを引っ張り、するりと毛束から引き抜く。
 風に揺れる長い髪をぼんやり振り返りながら、辿り着いた理美容室のガラス戸にそっと手をかけた。





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