体勢は依然として逆転したまま。
アキラはヒカルの対局時ですら見せることのない眼差しを受け息をのんだ。
次第に棋士としての実力を発揮してきたヒカルは、今ではアキラと合わせて龍虎と称されることも多い。
普段はその大きな瞳でころころと表情を変える、虎と云うよりは猫のようなヒカルだが、ひとたび対局が始まれば
その熱と高揚感に眠れる獅子が目を覚ますのだ。
淡く澄んだ琥珀色の瞳。その奥が煌めき獲物を翻弄し鮮やかに捕らえる。
対局の時のみ見せる美しい輝き。
それが今、振り乱された髪の隙間からギラギラという形容詞を伴ってアキラを睨み付けている。
目を覚ました獅子が獲物を威嚇し今にものど元を食いちぎろうとするかのように。
ごくり、とアキラは喉を鳴らした。
押しつけられた壁からはひんやりとした無機質な温度が伝わり、次第に身体の熱を奪っていく。

「進藤・・・」

その瞳に、もう一度呼びかけてみる。
すると鋭い光は遮られ、アキラを拘束していた両腕と共に目蓋も力なく降ろされた。
そのまま背を向けたヒカルの身体は、今では自分と大差ない体格だというのに何て小さく見えるのだろう。
暫く震えていた身体が落ち着きを取り戻すと、続いた静寂の流れに、ヒカルの掠れ声が響いた。

「・・・平気だと・・・オレが平気だって、本気で思ってるのか?」

「・・・」

「好きでチャラけてたとでも思ってんのかよ?!」

背を向けたままでも感じる波動

「・・・っ」

「すまなかった」

素直にそう言葉を紡げば、まるでそれがストッパーだったように、張りつめた風船の栓を抜いてしまったかのように
身体からありとあらゆるモノが抜けて、しぼんでいくようだった。
それと共にガラガラと、自分の中で何かの外れる音がした。

「・・・信じられないよ・・・」

アキラは重力に従順になりそうな身体を、頭を、片手で鷲掴んで前髪を掻き揚げた。
そして手のひらで顔を覆うと、先程からは想像も付かない自嘲じみた声色で短い息を吐き、くすりと笑った。
また、音がする。
合わせるように糸が切れて、支えきれなくなった身体はとうとう壁に力を借り、何とか立つことを叶えている。
鼻先をあげれば吹き抜けの天上。
ガラス張りの窓の向こうに鬱陶しいほど綺麗に輝く晩秋の星空。
そこに跨る正座の名前を教えて貰ったのは、何時だったろうか。

「中学時代に初めてと出会って、碁会所で何度も打って、検討もして、ケンカもして・・・
いつの間にかキミと一緒に院生になって、ボクを追ってきて・・・」

夢見心地に綴じた目蓋をゆっくりと上げれば、未だ輝くフォーマルハウト。
秋の夜空では唯一の一等星。



『この星の上にはね、水瓶座があるの。水瓶座の星はとても幸せな星座なんだよ。』



そう言って笑った彼女は、同時にその星座は暗い星が多く、人々の目に留まりにくいのだと言った。
それでも、彼女は・・・



「こんな事を言ったら笑われるかもしれないけれど、ボクはキミ達がプロになることを疑いもなく信じていた。
はねつけながら、心の何処かでは分かっていたんだ。
それを知らしめるようにキミ達は瞬く間に追いついてきて足音がどんどん大きく響いてくるのが聞こえた。」

「・・・」

「そして手をかけられると思った瞬間、足音は、キミのものしか聞こえなくなった。」

「・・・・・・」








「・・・十分だろ?」







パサリ、と、
漆黒の髪が顎のラインで揺れた。
襲ってくるはずの鼻の痛さや、視界の霞は、不思議と表れずに

ただ、声だけはもう、闇に包まれて消え入りそうで
喉の奥のどこから出てきたのかすら分からない。
気持ちだけはコップになみなみ注がれた水のようで



「もう・・・いいじゃないか・・・・は、一番大切なものを奪われたんだ!
何の予告もなしに突然・・・けれどは受け入れた。
受け入れて、笑っていたのに・・・・っ!!」


一度零れた水は留まる術を知らずに次々とアキラの心を濡らしていく。
更に心を通り過ぎ、全てが流れてアキラの心を渇かしていく。

ドンッ・・・と

後方に振り下ろしたアキラの拳が身体を支える壁にぶつかり鈍い音を立てた。
更にもう一度、もう一度・・・
止まることのないその音と共にアキラの身体もずれ堕ちる。
何度も、何度も・・・

「塔矢、やめろ・・・」

ヒカルが制止の言葉をかけようともアキラは拳をふるい続け、
何時しか壁には暗闇でもそれと解る赤い液体がこびりついていた。

「何故なんだっ・・・なぜ・・・どうして・・・っ
彼女が・・・・・が何をしたっていうんだ?!!」

「やめろ!!」

一段と高く振り上げたアキラの手首を、ヒカルは力一杯押さえつけた。

「やめろ」

右手首を掴んだまま、ヒカルはもう一度アキラの目を見ようとするが、髪の幕で覆われた彼の顔は俯いたまま
力なく座り込んで動かない。
辛うじて見える唇は固く噛みしめられており、うっすらと血がにじんでいた。

痛い・・・

胸に突き刺さるトゲに耐え、ヒカルは更に手に力を込めた。

「・・・辛いのはオマエだけじゃない。さっきもそう言っただろ?
それに、一番辛いのはオマエでもオレでもない
自身だ・・」

「でもキミはっ
キミは前から知っていた!の病状を。
だってそうだったんだろう?!橘さんもあのかかりつけの医師も皆そうだ!!
ボクだけだ!ボクだけ・・・何も知らずに・・・っ」

「塔矢」
「皆が悩んで苦しんでいる中でボクだけ!ボクだけ何も知らずに過ごしていたなんてっ・・・」
「塔矢!落ち着け!!」

ヒカルが両肩を揺すり呼びかけてもその声はまるでアキラには届いていない様子で、
両手で頭を抱え込んだまま光のない目を見開いて眼球を揺らしている。

「どうして言ってくれなかったんだ・・・」

逆に両肩を掴み返されて、ヒカルはその目にハッとする。
自分も・・・昔は・・・・・・

「ボクは・・・・に言ったんだ。
そんなこと全然知らなくて、これからのことを!
がいない未来を、彼女がいることが当然のようにいっぱい・・・いっぱい!!
そしたらは」

「アキラッ!!!」





















「・・・・笑ってた・・・・」






















ポタ・・・・・
ポタ、ポタ・・・・・・










冷たい床に、熱い雫が落ちていく。
それはすぐに染みこみ、乾く間もなく次から次へと
ヒカルの目から止めどなくほろほろと静かに流れて・・・・


アキラはうつろな目を焦点も合わせずに見開いたままだった。


「ごめん・・・ごめん、塔矢・・・・・」

目の前にいるアキラにすら聞こえるか分からない声で、それでもヒカルは涙と共に言葉を零した。

「オレが言ったんだよ。オマエには言わない方がいいって・・・」

「どう・・・して・・・・・」

「オマエには、そっちの方が辛くないと思ったから・・・
でも、オレは・・・・どっちも辛い・・・」

色素の抜けた金色の髪が、霞んだ視界に浮かび上がる。
ああ・・・そうだ、彼は
彼は両方体験してしまったんだ・・・

突然の別れと、予告した・・・別れ

二つの痛みを知っているから彼は、自分にとって少しでも和らぐと思う方を選んでくれたのだろう。
彼は昔からそうだった。
鈍感に見えて敏感。
自分勝手に見えて、何よりも他人を一番に想う。



彼女も、そういう人だ







「進藤・・・・・・」





後に何を続ければいいのか分からなくて
そのまま暫く彼の手元に染みこんでいく水の行方を眺めていた。
ぽたぽた
ぽたぽたと・・・・

ヒカルの静かな泣き声は、抜け殻のようになったアキラの心に
じんわりと染みこんでいった。

その心に、あの時の彼女が蘇る。


















『それでもね、その星の名前には全部「幸せ」がつくの。ひっそり夜空に浮かんでいて、目立たなくて、
寂しいこともあるんだけれど、それでもその星座は「幸せ」なんだって。』

















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