思えば、オレがプロになってから、随分な年月が流れた。
この道に進まなければ、きっと他の人たちと変わらずに高校入試を受けて、高校生やって・・・
大学は多分行かずに、就職していたと思う。
碁とは、全く関係ない仕事。石の硬さと冷たさそして、暖かさを知らない仕事------
でも今のオレは棋士だ。
石の硬さも冷たさも暖かさも全て知っている棋士。
その石を自分の指に挟み、盤上に放ち、一つの宇宙を創りあげる。
それがオレの仕事だ。
そしてこの道を・・・一度は外れかけたこの道に再び引っ張り上げてくれたのは・・・・
『キミの中に、もう一人いる---------』
見つけてくれたのは、お前。
『キミの打つ碁がキミの全てだ』
そう言ってくれたのもお前。
『それは変わらない』
そうさ。変わらない。
オレはオレの碁を打つ。それでいい。
それは、お前がオレに教えてくれたこと。
お前が当たり前のように、オレに突きつけてきた事実じゃねぇか。
なのに------
パチ
パチ・・・・
パチ
「黒、16の十一、アテ」
パチ
「白、8の十」
石が盤面をたたく音と、機械的な声が対局場に響く。
王座戦本戦、進藤ヒカル棋聖対塔矢アキラ王座のタイトルをかけた第一局は中盤に差し掛かっていた。
開始直後は記録係の隣でシャッターを切っていた取材陣もいなくなり、空気はより一層ピリピリとして
生涯のライバルと称せられる彼と、ともすれば勝ち負けなどどうでもよくなるような壮大な宇宙を創り出すはずだった。
はずだったのだが
「くっ・・・」
ヒカルは周囲に悟られないよう奥歯を噛みしめた。
石を持つ手こそ冷静に見えるが、膝に置かれた左手は少しでも気を許せば怒りにワナワナと震え上がり、目の前の人間の頬へ突きだしてしまいそうだ。
そして何より、この自分の前に出来上がった混沌とした醜いものをぐちゃぐちゃに崩してやりたかった。
しかし此処はタイトル戦。
プロ棋士なら誰もが憧れ、この場に座るために一年を費やする大舞台にそんな冒涜などできるはずもなく、
行き場のない怒りは自然、唯一動かせる右手の先の黒石に乗せられていた。
心の何処かで信じていた彼への思いが、一つ石を置くごとにぼろぼろと剥がれ落ちる。
思えば対局前からおかしかったのだ。
お互いに碁盤を挟み開始時間を待っているあいだ、アキラは一度たりともヒカルと目を合わせようとしなかった。
いつもならばヒカルが「オマエそんなにジロジロ見るなよ〜っ」と思わず苦笑混じりに叫んでしまうほど強く熱い視線で、此方の心まで焼き尽くそうとしてくるのに。
今日のアキラにはその炎の種火すら見えなかった。
まるで、初めから対局などする気もないような・・・
脳裏によぎった考えにヒカルは咄嗟に頭を振った。
そんな訳があるはずない。
塔矢アキラは何があっても碁の道を貫く人間だ。
碁や対局相手を蔑ろにするようなそんな態度や考えを持つはずがない。
ましてや相手が自分なら、と。ヒカルは深く息を吸った。
そうだ。
自分が相手なら、アキラは必ずいつもの、それ以上の碁を打ってくるに決まっていると思っていたし、自分もそれに全力で応える気でいたのだ。
だが、
対局の合図と共に見つめ合ったその目に、ヒカルのライバルとしての揺るぎない自信は足下から崩れ落ちていった。
瞳に、
アキラの漆黒の瞳に、光が宿っていないのだ。
まるでずっと洗い忘れていた碁石のように曇って、ヒカルを見もしないで。
「オマエ・・・」
想わず呟いたその言葉にすら、アキラは何の反応も示さずに、緩慢な動きで頭を下げた。
「お願いします」
「・・・・・お願いいます」
仕方なくヒカルもそれに習い、金色の前髪を床に零した。
シャッターの音とヒカルの放った石の音で対局が開始されたのだった。
パチ・・・
「黒、6の八」
・・・パチ
「白、13の九」
打つたびに、ヒカルのやりきれない怒りは吹き出しそうになる。
実際、指先に力を込めすぎていつか自分の放った石が、盤にめり込むのではないかと冗談抜きで思ってしまう。
それほどの激情でアキラに訴えかけても、彼はヒカルの事などまるで存在しないかのように機械的に打ち、自ら破滅を引き寄せいている。
何もかも全てから逃げる碁を打ち続け、すでに勝敗は見えているのにそれにすら気付かないで打ち続けている。
あの塔矢アキラが
「くっ・・・」
棋界の者達全てから期待され、その期待を裏切らない実力を確かに持っている彼が、
「くそっ・・・」
自分が、が大好きな美しく燃える碁を何時も惜しげもなく生み出すあの、塔矢アキラが
こんな-----
(くそおぉぉぉっ!!!)
バチッ!!!
張りつめた空気を破るその音に周囲の者は一瞬、ヒカルを観て固まってしまった。
塔矢アキラを除いては
パチ・・・
今のヒカルの一手にも特に気にする風でもなく淡々と次の一手をくりだした。
「・・・く・・黒、7の十二、カカリ
白、10の六・・・」
我に返った記録係が慌てて先程の手を読み上げる。
結局、アキラは投げることなく終局まで打ち続け、整地をするまでもなく進藤ヒカル棋聖の16目半勝ちとなった。
「検討をするか?」と聞くこともなく黙々と石を分けていると控え室でモニターを眺めていたらしい取材陣が対局室へどっと流れ込んできた。
同時にフラッシュの嵐が起こり、口々に記者の質問が飛び交う。
しかしアキラは顔を下げながら黙って石を碁笥に直し続けていた。
横に控えていた一人の記者がメモを片手にアキラへと質問を浴びせる。
「塔矢王座、最後まで粘られていましたが」
何か作戦でも・・・と言い切る前にヒカルの地を這う声が割って入った。
「すみませんが、取材は後にしてもらえますか。オレちょっと塔矢王座とじっくり検討したいんで」
‘じっくり’という部分を妙に強調し半ば眼前で前屈みにペンを突きだした記者を睨み付けると、吹き荒れていたフラッシュとざわめきはピタリと止んだ。
ヒカルから漂う一触即発めいたオーラを読み取ったのか、男は崩しかけていた姿勢をピンと正して元の位置に納まると
「アハハハ・・・・そうですよね〜、色々検討したいところありますよねー」
では、取材はまた後ほどということで。と引きつった笑みを残して入ってきたときの勢いそのままに一同は対局室を後にした。
パタン・・・と閉まった扉の音を最後に、二人しかいない密室は対局中とはまた違ったピリピリとした空気を漂わせる。
アキラは未だに俯いたまま、ヒカルはドアの方を見詰めたままでお互いを見る気配は一向になかった。
と、先程盤上に戻した碁笥を再び手元に引き寄せると、アキラは蓋を開けて石を並べ始めた。
「・・・・・何・・やってんだよ・・」
音に反応してヒカルが向き直る。
「検討したいんだろ?
ボクは何も言うことはないけれど、やるなら早くしてくれないか?」
パチ、パチ、パチ・・・
盤の前に座り直さないヒカルの変わりにアキラは一人で白と黒の両方を打つ。
次第に姿を現す先程の碁。
目を覆いたくなるようなそれを、同じリズムで、同じ事を、ずっと、ずっと・・・・・
「どうした?早く座ってくれ。ボクはあまり暇じゃないんだ」
バチンッ!!!
ジャラジャラジャラ・・・
小気味良い破裂音の後に、石が床へと落ちる音が続いた。
何が起こったのか解らないアキラは、感覚のなくなった左頬に手を添えながら、蛍光灯の光をバックに肩で息をしているヒカルを見上げた。
「・・・・・はっ・・・暇じゃないかよ・・・」
今まで聴いたことのない人を嘲笑うようなヒカルの声にアキラはただ目を見開くしかなかった。
幾度と無く言い争いをしてきた自分たちだが、ヒカルは自分の意見を遠慮なくぶつけてきこそすれ、相手の事を見下したり、冷めた表情で突き放したりするような人間ではない。
なのに今のヒカルは唖然とするアキラに更なる罵声を浴びせにかかるのだった。
「そうだよな。オマエが碁の勉強サボってまで、ここまで堕ちちまうぐらい忙しいんだよな?!」
「・・・・・」
「それじゃちょっと違うな。オマエ・・・」
「碁なんてもう、どうでもいいとか思ってんだろ」
「・・・」
「打つのすらめんどくさいとか思ってるんだろ・・・・っ!?」
「・・・・・・ないよ・・」
視線を落とし、蚊の鳴くようなか細い声が垂れ下がった黒髪の隙間から漏れてきた。
「なんだって?」
辛うじて聞き取れはしたが、ヒカルは敢えてもう一度訪ねる。
「・・・意味、ないんだよ・・・ボクが打っても、仕方ないんだ・・・・」
力なくうなだれるアキラをヒカルは黙って見下ろした。
こんなアキラをいったい誰が知っているだろう。
そしてふいに優しい声で呼びかけた。
「碁、やめたいか?」
目に見えてピクリと反応したアキラの身体にヒカルは更に微笑んだ。
「なぁ・・・」
降り注ぐ声は決して嫌味などではなく、いつかの夜の病院でのようにじんわりと心に染みいってくる。
アキラは急に泣きたくなった。
「覚えてるか?前にオマエがオレに同じ事言ったの。」
返事はなかったが、ヒカルは恰もアキラからの答えがあったかのように言葉を続けた。
「あの時さ、きっとオレも同じ目をしてたのな。そんなオレにオマエ、何て言ったか覚えてる?」
「・・・・・」
「オマエ、こう言ったんだぜ」
「“ボクはそう思わない”」
「・・・」
「オレも、そう思うぜ?」
また固まってしまったアキラの背後にヒカルは回るとその場に腰を下ろして自分の背中をアキラの背中とくっつけた。
丁度お互いの背が背もたれになるように。
ちょっとだけアキラに体重をかける。
普段は照れくさくて、とても云えたものじゃないけれど、今日限りはとヒカルはゆっくり口を開いた。
天を仰ぎながら語りかける其の声は決してアキラにだけ向けられているものではなくて。
「オマエの碁を必要としているヤツはたくさんいる。
オマエがオマエの碁を打つたびに何かを感じるヤツがいっぱいいるの、オマエだってわかってるだろ?」
碁会所のお客さん、市河さん、
アキラのお父さんにお母さん。
そしてオレと、・・・・
塔矢アキラを応援している全ての人が、塔矢アキラの碁を期待している。必要としている。
昔、同じ事に気付かせてくれたのはオマエ。
「でも・・・」
「ん?」
黙っていたアキラが少し顔を上げたことが背中越しのヒカルに伝わり、ヒカルは少し身体を前へ倒した。
「彼女の・・・・の、病気が治るわけじゃ、ない・・・・」
立てた片方の膝に額を押しつけて髪がこぼれる。
「オマエ、馬鹿だなぁ・・・」
ぐいぐいと体重を背中へ傾けると、アキラはどんどん前のめりになっていき、バランスを崩しかけて慌てて体勢を立て直した。
そんな事にはお構いなしでヒカルは更に自分の体重を預けていく。
「碁打って病気治せるなら、棋士はとっくに医者になってるっての。」
「ハハ・・・そうだね・・・・・」
無理して笑って見せようとするが、声は掠れて鈍く、酷く弱々しい。
「確かに、オレ達が打ってもの病気は治せないさ。でもな、一緒に戦うことはできるだろ?」
「・・・・」
「なんつーかさホラ、団体戦みたいなもん?
直接味方のヤツに手は貸せなくても同じメンバーのヤツが頑張ってる姿見て
自分も頑張るぞーって思えるみたいなさ!」
ははははと陽気に笑うヒカルの揺れに誘われてアキラは小さく笑った。
「キミは・・・」
「ん?」
スゥ・・・・と細く長い息を吐く
「キミは、強いな」
「ボクはキミのようには強くなれない」
「オマエはまだ知らないからな」
いきなり下がった声のトーンは彼の過去を嫌でも思い出させるようで、
それでも辛い記憶ばかりじゃないと水面に小石を投げ入れた時の様に穏やかに波紋を描いて広がっていった。
ゆっくりと沈んでいく小石。
強く、なれるんだろうか。自分も。
こんなに苦しくても、いつかそれだけじゃなかったと穏やかに全てを抱きしめられるまで----
「オレはずっと知らなかったから・・・大切な人が消えること。気付いてやれもしなかった。
だから自分を責めてたんだ。自分を追い込めば、罪が軽くなるような気がして・・・」
背中越しの彼は、一言一言を噛みしめるように誓いの儀式のように言葉を紡ぐ。
きっとそれは向こうにいるであろうその人にも向けられているのだろう。
自分と彼と両方。
アキラはそれを黙って受け止める。
一言も零さないように
「でも、な」
ふと、目標が自分一人になったのだとアキラは感じた。
まるで神の代弁を受け取るように、身体が緊張する。
「オマエは、違う」
「オマエは・・・もう知ってるんだから。
ここにいるんだから。大切な人が。」
だからオレは逃げないと、
そう言いきったヒカルの背中はとても強く逞しく思えて、対して自分が如何に無力で臆病なのかを思い知らされる。
強く、なりたいな。全てを・・・彼女を守れるように。
ふいに背中が離れ、空気が動いた。
急に温度がそこから去って、立ち上がったヒカルの方を振り向けば、とても優しく微笑む彼の顔があった。
自然と綻ぶように広がるその笑顔は彼女のそれとどこか似ている。
「打てよ」
その一言に
アキラは胸をさされた。
たった三文字のその音が、アキラの胸郭に、圧倒的な質量をもって迫ってくる。
それはヒカルの言葉であってヒカルの言葉ではない。
アキラの大切な全ての人々の言葉であり、願いだった。
ヒカルはその代弁者。
暫く聴いていない彼女の声までも頭の中に、心に響いてくるようだった。
打って、アキラ。と-------
もしも今彼女にあったら、何をおいてでも真っ先にそう言うに違いない。
「打て。塔矢。
それがオレたちの、にあげられる最高の力だ。
オマエが自分を責めようが、碁を止めようがオマエの勝手だ。
でもな、それはオマエができることを全部やってみて、それでもダメだったときにしろよ
分かっていて、分からないフリして逃げるのは、最低だ。」
最低、という非難の声を浴びせられたというのに、今のアキラは霧が晴れたように何もかもががすっきり見えていた。
ぼんやりと霞んで、一歩先すら見えなかった視界が徐々にクリアになっていく。
そうすると今まで見えなかった眼前には自分のなすべき事がいくつも転がっていることに気が付く。
そしてその中でも今、自分が最優先すべきものは・・・・・
「進藤!」
「ん?」
声と同時に立ち上がったアキラの目には、もういつもの光が戻っていた。
「王座戦第一局・・・こんな結果になってしまったが次はそうはいかない!」
蘇った以前よりも鋭く熱いその輝きに、ヒカルは昔の自分もそうであったのかと思い出す。
ずっと追い続けてきた、この目を自分に向けて欲しくてずっと食らいついてきた塔矢に戦線復帰の宣言をし
同時に、終わりのないこの道を永遠に共に歩くと誓ったあの時。
ヒカルはクスッと笑いを漏らすとそのまま対局室の出口へと向かった。
「やっぱり似てるのかな。オレ達・・・」
「なんだ?進藤」
「何でもねぇ。ただ・・・」
「“いつか“もそう遠くないかもしれないなって」
「!!」
チラと垣間見たアキラの表情はやっぱり驚きに溢れていて
ヒカルは再び笑いを漏らすとスタスタと廊下を歩き出した。
「まっ待て!進藤。遠くないとはどういう事だ?!今すぐ話してくれるのか?!」
我に返ったアキラがすぐさまヒカルの後を追う。
必死な分かりやすい口調にヒカルは多少の苦笑いも含めると歩きながらも答えを返した。
「なわけねぇじゃん。まだだよ。もうすぐ。」
「もうすぐ?!」
その後はあの時と同じ。
ヒカルの呼んだエレベーターに二人で乗り込むと、目的の階へ着いても尚、二人の声はやむことがなくて。
棋院の人に怒られた。
ただあの時と違うのは
「いつか」が着実に近づいていると言うこと。
ヒロイン連続で出なくてすみません(汗)
次は、出ます・・!しかもちょっとラブ?かなぁ・・・