はじめは、利用していただけなんだろう。
彼女に声をかけたのも、彼女に笑いかけたのも、
全ては彼との再戦を果たしたいがため。
自分の、碁のため--------


それなのに何時からだろう
「理由」がなくなり出したのは。
気が付けば彼女に声をかけ、屈託のない微笑みに、
此方まで自然と笑うようになったのは。

知らなかった

彼女に出会うまで
囲碁のない自分があるなんて
そんな自分が楽しいなんて

キミといることがこんなにも・・・
キミのことが、こんなにも・・・ボクは・・・・・・










タクシーのドアを手で押し開けると、冷え切った空気が頬に刺さって痛い。
視界を降る白い結晶は、先程よりも本降りになってきたらしい。
それでも積もることはなく、アスファルトに落ちてはしみこみ、またその上に新しい白が重なって消えていく。
足を止め、耳を澄ませばきっと、雪の降る音が聞こえるのだろう。
だがボクはそんなことはお構いなしに走った。
凍った地面に足を取られないよう、できる限りの速さで裏口に回り込み、橘さんからもしものために受け取っていた鍵を使う。
ガチャン・・・と重々しい音を聞くことさえもどかしくて、音と同時に体当たりをしてドアを開けた。
人ひとりいない病院は休まず動くボクの足が床を蹴る音を大げさに響かせる。
そして、あの日の事を思い出させる。
が倒れた日。
自分の無力さを知った日。
あの日以来、此処には一度も来ていない。
それでも忘れるのことのない道をボクはあの日とは全く違った焦燥感を抱えて走った。

云わなければならないことがある。
彼女に会って、どうしても今夜----------

響く足音の間隔が、更に短くなった。
一階、二階、三階・・・・・

見慣れた病室のドアの前へ立ってから、ふと、彼女はもう寝てしまっているのではないかという考えに至る。
今更ながらに相当焦っている自分に苦笑すると、一度軽く呼吸を整え
ゆっくりとドアノブを回した。










ビュウ・・・と顔に当たった冷風に髪をさらわれ視界を閉じ、緩んだところでもう一度開けると
最初に見えたのは、雪の舞う夜空で・・・


・・・」

驚きに、思わず漏れたアキラの言葉に
はゆっくりとこちら側へと顔を向け、静かに笑った。

「アキラ」

その声に、表情に、アキラは息を呑んだ。
動けない。
動いてしまったら最後、そのまま消えてなくなるくらいに儚げな顔をしていた。
一瞬たじろぎそうになりながらも、の背後で降りしきる雪を観てハッとする。

「・・・・・何してるんだ・・、窓、開けっ放しじゃないか・・・」
「閉めないで」

慌ててベッドを横切り、窓枠に置きかけたアキラの手がピタリと止まりを見詰める。

「雪、見ておきたいんだ」

言って振り返ったアキラに笑いかける。
その前を雪が一片、窓枠とアキラの腕の隙間から入り込み、
の手にひらひらと舞い落ち、溶けた。

「・・・わかった。でも、窓だけは閉めるよ。このままじゃ冷え切ってしまう」
「うん・・・」

それにも少し不安がありそうなのがアキラには分かったが、
でこういうとき、彼は何を言ってもきかないと知っているので大人しくベッドに座り直した。
窓を閉めるとカーテンだけはそのままに、アキラはの隣に腰を下ろした。
そして彼女の、先程雪が触れた方の手を取り包み込む。

「冷たいじゃないか・・・・なんでこんな日に窓なんか・・・・・」
「来ると、思ったんだ。アキラと・・・」
「・・・ボクと?」

言いかけては目を閉じ、少し俯いて首を振った。

「ううん、アキラの方がはやいって、わかってた。」

最後の方は、がアキラの身体に凭れ掛かった所為でくぐもってしまった。
サラサラと細い髪が動いて、水の流れを観ているようだ。
その流れを確かめるようにアキラはゆっくりと、手前で身体を支えていた腕をの方へと伸ばす。

「・・顔も、冷たい・・・・」

囁くように云いながら、頬から耳の後ろへと髪を梳き、その体をそっと抱き寄せた。
すると自分が暖められているように、そこの部分だけ暖かい。

「だって、待ってたんだから。アキラのこと」
「ごめん・・・」

さらりと言ったの言葉に、アキラはただ一言、神妙な声を漏らすのが精一杯だった。
吐息のようなその謝罪に、はクスクス可笑しそうに笑うと

「何でキミがあやまるの?」

彼の口調を真似て言った。

「それは・・」
「どうしたの?アキラ。明日は大事な王座戦第二局でしょ?」
「うん、だから・・・もう少ししたら行かなきゃならないんだ」
「そっか・・・」

呟いた声は目の前の服に包まれ、重なった布の中に吸い込まれていった。
それを返すように微かに響く身体の音と、ゆっくり胸が上下する動きを、は目を閉じ感じていた。
明かりもつけずにある空間は、窓の外の街灯と雪が跳ね返す光で弱く浮き上がるだけで
切り取られたような窓の外では雪の輝きが闇を切り抜き、淡く幻想的な光を生み出している。
耳を澄ませば鈴の音でも聞こえてきそうな、そんな夜だった。

柔らかな髪の流れを追いながら、アキラは何度か硝子越しのそれらを見詰めた。



「アキラ・・・」
「なに?」

依然としての髪の毛をときながら、アキラは視線を落とした。
答える吐息が顔に掛かったのか、はくすぐったそうに身じろぐ。

「私達が初めて会ったときのこと、覚えてる?」
「ああ、覚えているよ。あの時は雪じゃなくて桜の花びらが舞っていた。」
「うん。」

またしばらくは、音にならない鈴の音が部屋を満たして

「碁の神様っているのかな?」
「え?」

突然の呟きに動かしていた手を止めると、アキラはそのまま頬に手を添えた形での瞳を覗き込んだ。
ちらちらと揺れる渚のような光が見える。

「私、アキラに会わなかったら、こんなにも囲碁、頑張れなかったと思うんだ。」
「・・・・」
「そうしたら、私は今の私じゃなかったんだよ。
アキラとも、他の人たちとも知り合うことすらなくて今とは全然違う生活をしていたのかも・・・」
「・・・・・・」
「それを考えたら凄いことだなと思って。一体どれだけの低い確率でこんなに広い世界、私とアキラは出会ったんだろうって。」

それに時代も考えたらきりがないと、どこか遠くを思い描きながら
の水晶のような目の奥が水面が光が照り返すようにチラチラと輝いている。
アキラはいつもその光を見てきた。
当たり前のように確かなものとして見てきたが、が云うことがそうなら、この光はなんて曖昧で不確かで、
奇跡のようなものなのだろう。

「キミは・・・出会いたくなかった?」

あまりにもそれが儚いから、ふいに、そんなことを聞きたくなる。
もしかしたら、彼女は自分と出会いたくなかったのではないか、出会うべきではなかったのではないかと。
碁を打つときの彼女の表情は何時でも生命力に満ちあふれていて美しい。
だが、それがあまりに美しすぎて、それが彼女の限りある命を人より早く使わせ過ぎてしまったのではないかと、いつかしかアキラは想うようになっていた。
もし自分にさえ出会わなければ、彼女は碁以外の何かを見つけて、自分以外の誰かと出会って、自らの命を削ることもなく
もっと幸せに暮らしていたのではないかと。
今もこんな四角い白い部屋ではなくて、暖かな日の光を浴びて誰かの隣で幸せに過ごせていたのではないかと。

今まで押さえて、考えないようにしていたものがどっと溢れてくる。
不安に押しつぶされそうなアキラの内を、だがは軽やかな笑い声で取り払った。

「まさか。会えて良かったと思うよ。だから時々不安になるの。もし、あの時アキラに出会っていなかったらって。
アキラにとっては私との出会いなんて小さな事かもしれないけれど・・」
「そんなことないさ」

今度はアキラが否定をする番だった。
儚く笑うの手をとり、その瞳の奥の・・・自分の姿を写す更に奥を見詰める。
すると、今までの不安や自信のなさが何処かへすぅっと消えていくようで、今までとは正反対の言葉が次々と確信を持って出てくるのだった。
音もなく目を閉じて軽く額を合わせれば、もまた同じように少し俯き加減で目を閉じる。
サラサラと互いの髪の毛が混じり合うくすぐったさを感じながらもアキラは静かに言葉を続ける。
それは自分自身にも言い聞かせるようなささやきだった。

「必ず出会うよ。ボク達は。
碁の神様がいるとしたら、それはボク等を出会わせてくれたことだ。その運命を与えてくれたことだよ。」
「・・・うん・・・」
「キミはボクに、数え切れないくらいたくさんのものを与えてくれた。」

いつもの碁会所での帰り道。せわしなく散る桜の色、季節を通して咲き乱れる花や木々の名前。
帰るのが名残惜しくて上った小高い丘の夕日の赤さや、寄り道したファーストフード店のちょっとぱさついたパンの味。
それでもと一緒だと美味しかった。
「また明日」と言って手を振り分かれられることがこんなにも胸躍ることだとは知らなかった。
いつもいつも毎日が楽しくて、新鮮だった。
世界はこんなにも奥が深くて、求めれば何時でも新しい何かを与えてくれると、彼女の隣で、夕日の色に染まる頬を見詰めながら
あの時の自分の頬は夕日がなくても染まっていたのだろうと今ならはっきりと自覚できる。
帰り道は坂をブレーキ無しで突っ切って、自転車で二人乗りをしてコケかけた。
必死にハンドルと身体を掴みながらハラハラして、それも新しい発見で・・・

「碁のことはもちろんだけれど、キミは、初めてボクに、碁以外の世界を教えてくれたんだ。」
「・・・・・うん」

共に過ごした時間はほんの僅かだったけれど、と作った数々の想い出は、色あせることなく全て自分の中にある。
その一つ一つを振り返りながら、アキラはそっとの頬を包み込む。
目蓋を上げれば穏やかな微笑みに、かすかに震える睫毛。
その奥にある、透き通った眼。
いつもこの目が映し出す景色を共に眺めていたかった。

「そして、何より」

ゆっくりと降ろされた彼女の目蓋に自分のそれを重ねるように。
細く息を吐く唇に、アキラはそっと口づけた。
軽く触れて、静かに離れると、アキラは優しく微笑んで



「ボクは、独りじゃなくなった」


その言葉に、も同じように笑った。
今までのどの笑顔よりも輝いた、幸福に満ちあふれた日だまりの様な笑顔。
少し痩せた身体にアキラが腕を回すと、の身体は驚くほどすっぽりと収まって触れたところから暖かい光の波が滲み出て来るようだった。


幸せだ-----


アキラは素直にそう思った。
人の温もりとはこれほどまでに安心できるものなのだ。
また一つ感じた新たな発見をより確かにするために、アキラは少し回した腕に力を強める。

「はじめてなんだ・・・」

顎をの肩に乗せれば吐息と共に自然と言葉が溢れ出す。
夢見心地で目蓋を降ろすとも頭をコトリと傾け、頬にも微かな熱が伝わる。
サラサラと髪が零れて絡まり合う。

「こんなに、幸せだと想ったことは」
「・・・・」
「ずっと、キミが大切だった。だから、キミの望むことは何でもしたかったし、何時もキミには笑っていて欲しかった。
その為に、ボクは自分に出来ることは精一杯やっていたつもりだったよ。」


「でも結局ボクは、今までキミのことを心の底では恨んでいたのかもしれない。」


は何時かのように黙ってアキラの言葉を待った。
強張っているわけでも、怒っているわけでもなく、自らの身体を包む彼に全てをゆだねて受け入れるために聞いている。
それに力を得たようにアキラは更に素直な言葉を紡ぎ出す。

「キミが倒れてからずっと、ボクはこの部屋から出られないキミをみてうっとうしく想っていたんだ。
桜の舞い散るあの日、突然ボクの目の前に現れて、ボクに笑いかけてきて、そしてキミは囲碁を覚えた。
キミは日に日に上達していって、ボクはキミと打てるのがとても楽しかった。勿論、碁以外の事もね。
でもキミは結局ボクとではなく、彼と歩むようになった。
彼と共に強くなって、プロの世界に入ったボクを追いかけてきて、見えない影にボクを脅かして期待させて・・・・」



「そう思ったら、突然、倒れて」


「・・・・」





「病院に来るたびにボクは思った。キミは嘘つきだと。
いつか、追いつくと約束したのに。ずっと同じ道を歩いていくと誓ったのに。
勝手に倒れて、勝手に歩みを止めて、それでもキミは碁を打ち続けて・・・・っ!!」


最後の声は掠れて震えて
六年間、塞き止められていた感情が封を切って溢れ出す。
駄目だと思ってもそれは止まらずに流れ続けて、もはやアキラは自分が何を言っているのかも分からなかった。
それでも辛うじて、腕の中の人は傷付けないように、力は身体の震えとなっての体へ伝わっていく。


「どうしてなんだ・・・?
どうしてボクが、苦しまなくちゃならない?!
苦しいのはキミなのに、なんでボクまで・・・キミを見て、それでも痛みを取り繕わないといけない?
どうしてボクが
こんなにもキミを憎まないといけない・・・っ?!」

どこまでもどこまでもそれは溢れて、止まらなくて、
アキラはただ全身を震わせて、腕の中にあるの体を抱きしめた。
まるで、無茶な理由で駄々をこねる子どものようだ。
そんなこと、本当に子どもの頃ですら数えるほどしかなかったのに。それでも

「ボクは・・・・」

それでも、ボクは




「キミのことが、こんなにも大切なのに-------」










とても幸せなのに、と
囁く震えに、アキラは一筋の涙を流した。
暖かく透明なその水は、ふれ合っていたの頬へと伝い滑り落ちて行く。
はゆっくりと涙の後を指でなぞると、アキラの頬に手を添えて包み込んだ。
間近で見詰められた事に今更ながらに胸を突かれる。

「アキラ・・・泣けるようになったんだね」

「え・・・?」

発したはずのアキラの言葉は酷く掠れて小さかった。
知らず知らずの内に叫んでいた所為で喉は潰れて髪は乱れて・・・それでもきょとんと見開かれた眼だけは幾分幼くも澄んでいて、
そこからまた涙がこぼれ落ちる。
そのひとしずくを愛おしげに眺めると、は初めて自分の意志でアキラの背中に腕を回した。
先程とは違った暖かさ。まるで日だまりの中で微睡んでいるような・・・

「大丈夫だよ。泣けるようになれば、もう、大丈夫だから」

ぽかぽかと優しく照らす光の中、の声はまるで子守歌のように聞こえてきた。
じんわりと乾いた心に染みいっていくようで、また涙が流れてくる。
今度は止めどなく後から後から溢れ出てきて後はもうどうしようもなかった。

初めて流す涙かもしれない。
自分のためにではなく、他人のために流す涙。
それが彼女で良かったと、アキラはその事にまた涙した。


の腕に包まれながら、アキラは一時、子どものように泣いた。







アキラの身体をさすっていたは、ふと窓の外を見て手を止めた。

「・・・アキラ、そろそろ行かないと。」

腕時計に視線を移す。
終電にはギリギリの時間だった。これに乗らなければ、明日の王座戦には間に合わないだろう。
それでもアキラは立ち上がろうとしない。離れたくない。
秒針が一刻一刻、時を刻むのをじっと見続ける。
もし、もしこのまま此処にいられれば---------------

その思考を遮るように、視界にの手が静かに入り込んだ。
時計ごと手を包み込まれ、アキラはハッとしてを見詰めた。
まわる針と共に良からぬ思考に回されそうになったアキラをこちら側へと引き戻してくれる。

「アキラ・・・」

鈴の音が聞こえたような気がした。

「私は、嘘つきだよ。でも、アキラまで嘘つきになるの?」

微かに唸る、冬の風。握りしめた手をそのままに、自分の胸元へ持っていく。
は祈るように眼を閉じた。

「大丈夫だよ。アキラは泣いてくれた。
私のいる前で泣いてくれた。
私に全てを伝えてくれて、私は全てを知ることができた。
だから・・・・・」


だからもう、離れたりしない。






「あなたに出会えて、とても幸せ----------」









ああ、なんて
なんて顔をするんだろう。




ボクは

これからも一生、こんな表情を見ることは二度と出来ないだろうと、ボクは思った。
そして、一度きりでいいと。
そんな表情をにさせたのが、ボクで良かったと。
息が出来なくて、視界がぼやけて
それでも幸せに胸が締め付けられて・・・・・
ボクはまた、微笑みながら涙を流した。
粉雪をバックに浮かび上がるの姿が僅かに霞んで、溶けていく。


その存在を確かめるように、ボクはの手を強く握りかえし、引き寄せた。

「明後日には、戻るから。」
「うん。待ってるよ。」
「戻ってきたら検討をしよう。進藤も一緒に。キミと、三人で。」
「うん。」
「たくさん話をしたいから、だからきっと-------」

待っていて。と。

小さく囁く言葉と共に、もう一度だけキスをした。
今度はついばむように少しだけ長く。
自然と腕をまわし合い、抱きしめる。




窓の外では粉雪に混じって、桜の花びらが舞っていた。







































ちょっ・・・とはアキラ夢っぽかった、と、感じて頂けていたらいいのですが!(汗)
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