ホテルのロビーで簡単な受付を済ませたヒカルは、革靴で柔らかな絨毯を踏みしめながら進んだ。
エレベーターのボタンを押し、音もなく流れる数字の点滅を見上げる。
その間にもう一度、横にかけられた鏡を覗き込み、スーツの襟とネクタイの身なりを確認した。
プロに入り立ての頃は、動きにくく首もとが詰まると不満を漏らしていたスーツも今ではすっかり慣れたもので、こうして大きな手合いやメディアへの出番が増えていくたび、着る機会も増えて行く。
それでも今日は、特別だった。
タイトル戦。しかも、相手はあの塔矢アキラ。
一回戦は彼の精神的な部分でもめて主に番外戦がメインのようになってしまったけれど、今回は違う。
昨夜の東京駅でのプラットホーム、アキラの表情を観て、ヒカルはそう確信していた。
緊張が、徐々に沸き立つ闘志へと昇華されていく。
ガァ---------
「あ」
「あ・・・」
静かな音と共に開いたエレベーターの扉奥からは、たった今盤の向こうに座る姿を想像した本人が顔を出し、お互いに思わず固まる。
それでも箱の中にいたアキラは「開」のボタンを押し続けたまま
「・・・・乗らないのか?」
仏頂面で話しかけてきた。
声には答えずヒカルが無言で乗り込むと、再び静かに扉が閉まった。
「・・・・」
「・・・・」
僅かばかりの重力を伴い、上昇していく空間。
対局場のあるホテルの最上階まではそれなりの時間を要する。
二人は透けるガラス越しに広がるビル群の風景からは背を向け、無言のままで立っていた。
時折ガラス枠が日光を遮り、それが帯状の影となって駆け下りていく。
「そう簡単に」
最上階へと近づくランプを見上げながらヒカルが呟く
「お前に、タイトルは防衛させないからな」
アキラがちらとヒカルを見ても、ヒカルは依然視線を上に向けたまま、うっすらと笑った。
「お前がどんなに“絶対負けねぇ”って顔しててもな」
その言葉に、アキラは再びドアの無機質な表面へと視線を戻すと、ヒカルと同じ表情を作った。
ドアの閉まる音を背にエレベーターを降りると、対局室へと続く通路の途中で天野と出会った。
彼は二人がまだ追いかけ追われる関係であった時代から棋界を常に見守り、発展させてきた週刊碁の編集を手がける記者だった。
二人を見つけると普段通りの気さくな笑顔で短く声をかけ、そのまま二人の元へと歩み寄ってくる。
「やぁ、進藤くんに塔矢くん。仲良く一緒に入室かい?」
「ええ・・・、まぁ」
「そーなんですよ。こいつ最近弱気でしょ?一緒にいてやろうと思って」
「進藤」
対応する横から身体を割り込ませたヒカルに、アキラは多少眉を寄せる。
何時もと違い強く否定できないアキラににやりと笑みを向けると肩に腕を回してまぁまぁと寄りかかった。
続いて溜め息を漏らしたアキラと面白そうに笑い続けるヒカルを観て、天野はかつて、別々の世界にいた彼等を思い返した。
一人孤独に碁界を進んだアキラと、それを死に者狂いで追いかけていたヒカル。
初めは二人が対のような存在であると言うことが信じられなかったが、今のこの二人を観れば、逆に互いが孤独に路を進んでいた時代があったことの方が信じられない。
それだけ、今の彼等は離しがたく、お互いが揃ってこその完全だった。
「なんだか感慨深いねぇ」
ポツリ、と漏らした言葉に、二人は顔を見合わせた。それさえも同時で。
「丁度良かった、じゃあ、大一番に望む前のお二人に、今の意気込みを聞かせて貰おうかな」
来月のトップ記事は決まっているしね。と胸元のポケットに掛けられていたペンを引き抜きくるりと回しながら、その先をマイク代わりに二人へと向けた。
「意気込みって言ってもなぁ・・・」
「『お前がどんなに“絶対負けねぇ”って顔してても勝ってやる』」
頭を掻くヒカルの横でアキラがそしらぬ顔で発言した。
「あっ!おまえずりぃ!!」
「キミがさっさと言わないからだ」
「今言おうとしてたんだって!」
まるで漫才のような二人のやりとりに天野はとうとう耐えきれずに笑い声を上げた。
突然の声に眼を点にした龍虎。
その様子はこれからタイトルを掛けた熾烈な争いをする者達とはとても想えなかった。
「君たちは本当に・・・変わったようで変わってないんだねぇ」
しみじみとした天野の言葉に二人は顔を見合わせて笑った。
「あ、天野さん。お二人と何を話していたんですか?随分楽しそうでしたけど」
モニタールームでカメラの整備をしていた新人記者は部屋に入ってきた天野に尋ねた。
手にしていたタオルでレンズを丁寧に磨きながら天野の顔を見上げ、そして手を止めた。
「天野さん・・・?」
声と記者を通り過ぎ、無言のままで天野は椅子へと腰を下ろすと、内ポケットから煙草とライターを取りだした。
加えた先に火を付け、ゆっくりと吸い込み、吐いた。
薄紫の煙がゆらゆらと天上付近で渦を巻いた。
「今日は」
ゆっくりと吸って、再び吐いた。
「神を見られるかもしれん」
天野の表情と、期待に震えた声に、周りの取材陣は揃って顔を見合わせた。
対局場に入り、記録係と部屋に立ち会った人々に軽く挨拶をしてから盤を挟む。
同席していたカメラマンが、対峙する二人に向けてシャッターを切った。
そこで初めていつもの人がいないことに気が付く。
「あれ?天野さんは?」
「それが、さっきからモニターの側を離れないんです。」
まだ始まってもいないのに。と、眼を細めながら訪ねたヒカルにカメラマンは苦笑しながらカメラを持ち替えた。
もう一度光を放ちシャッターを切る。
「・・・捧げるのは、アイツ等だけにじゃないよな」
「はい?」
呟かれた言葉の真意を掴めず、カメラマンは首を傾げる。が、その横に対峙したアキラはしっかりとした様子で一度頷いた。
「ああ、大変な一局だ」
「お前は一回目、ボロ負けだったしな」
「侮っているところを打ちのめすのもまた一興」
「言ってくれるぜ」
ふと、視線が合って不適な笑みを浮かべ合う。
二人の中にサインがあった。
「時間になりました。」
二人の若者は龍虎になる。
ゆっくりと下ろされ再び開かれた瞳には炎が宿っていた。
「ただ今より、第52回、王座戦本戦 塔矢アキラ王座対挑戦者進藤ヒカル棋聖の第二戦目を開始します」
「お願いします」
「お願いします」
碁笥の中からつままれた石が、音を立てて盤上に置かれた。
閃光と共に星となって。
きらめいたその光の向こうで、誰かの声が聞こえたような気がした。
もしかしてほぼ一年ぶり?(汗)
夢小説なので頑張ってリアルタイムとシンクロさせて終わりたいと思います。
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