その宇宙に、周囲は皆息を呑む。
対局場の隣りに設置されたモニタールームで待機している人々はおろか、記録係も秒読み係も、目の前で今創り出される宇宙に時折己の役目を忘れていた。
「天野さん・・・これは・・・」
穴の空く勢いでモニターを注視していたカメラマンは、やっとの事で口だけを動かして、隣りの天野に問いかけた。
天野もまた、その声に一度頷くだけであった。
モニタールームの誰一人として、画面から視線を逸らせることは叶わない。
「なんて凄い碁だ。これが碁というものなのか・・・」
モニタの前に集まった中の何処かから、感歎の声が漏れた。
視線の先で繰り広げられている一局は、今までのどの碁と呼ばれるものとも違っていた。
「美しい」
碁は本来、ある種の戦争だ。
その中には当然、ルールや形や美学があり、譲り合いの精神も伴うが、公式戦でそんなことは言っていられない。
ましてや一年をかけて争われるタイトル戦であるならば、相手に勝つためであればどんなことでも厭わない覚悟で臨まなければならない。
それが例え番外戦であろうとも。
相手の美しい形に分け入り、暴れ、潰していかなければならない。
それが碁だ。
だが今のそれは全く違った。
潰しているのではない。創っているのだ。
勝利を掴もうとする意志以上に感じられる感情。
まるで、誰かに捧げるように。
生まれていく星々に、天野は先程までの二人とのやり取りを思い出す。
『それじゃあ塔矢くん。挑戦者はあのように申しておりますが、迎え撃つ側としての意気込みは?』
『そうですね・・・』
ヒカルの時と同様に天野がマイク代わりのペン先を向けるとアキラは右手を顎に添えた。
しばらくその格好で思案した後、手を解くと、ふいに表情を穏やかに緩めて
『ある人に・・・』
『?』
『・・・いえ・・・・ある方々に、捧げる碁を打ちたいと思います』
そう言って微笑んだ。
それは隣りで静かに彼の言葉を聞いていたヒカルも同じ事で。
『塔矢・・・』
『進藤。負けないからな』
内に秘められた以前よりも輝きと優しさを増したその光に、ヒカルは満足そうに微笑んだ。
『オレだって』
力強く頷くライバルに今度こそヒカルは、自分たちが似ていると言ったあの人たちの気持ちがはっきりと解ったような気がした。
そんな二人の様子を、天野は静かに、しかし内心ではざわめく何かを感じながら熱い思いで見守っていた。
盤上に石が放たれ、それはすぐさま星となる。
路は宇宙の源となり、星を結びつけていく。
生まれる形をあの人へ。
流れる運びをあの人へ。
一手一手を繰り出すたびに一人ひとりに確実に、伝えられるものがある。
側で見守る記録係。
隣室で待機する取材陣。
囲碁雑誌を読む者。
全ての碁を打つ人。
全ての。
全ての囲碁を愛する人へ。
その一手が、きっと伝わるはずだ。
(-----塔矢-----)
顔を上げなくとも分かる。
今、自分と盤を挟み、共に宇宙を創りあげている相手の表情。
あの頃のまま。果てのない色をもつその瞳で、見詰めるものはきっと同じ。
目差す場所は誰もが皆---------
(だからオレ達は打つんだろう?)
誰のためでもない。それは自分のために。
でも---------
(それが、あの人たちの為にもなるんだ。進藤)
(ああ)
碁は、一人では打てない。
それなら--------
碁の神様だって
きっと一人じゃないはずだ。
静寂に包まれた対局室。
石が盤と擦れる音と、石同士が僅かにぶつかる音だけが唯一耳に入ってくる。
盤を中心に集まる人々が、勝負の結果を見守っていた。
「ふぅ・・・」
「はぁ・・・」
やがて音が止み、お互いが大きな息を身体から吐きだした。
美しく整地された盤面に視線が注がれる。
結果は
コミを入れて白番、塔矢アキラ王座の一目半勝ち。
秒読み係のその声に周囲は弾かれたように声を上げた。
隣室からは興奮冷めやらぬ面持ちの記者や関係者達が我先にと碁盤と二人を取り囲む。
雪崩のように押し寄せた人とフラッシュの嵐にアキラとヒカルは対局後の真っ白な頭で見上げたままだった。
普段は順序立てて行われるはずの取材が全く要領を得ていない。
何かを口にする人々の声も幾重にも重なりまるで喧噪が遠い他人事のように思われていたが、ふと、目の前のフラッシュの光が眼孔に入り意識が現実に戻される。
「あ・・・あの」
戸惑い勝ちに立ち上がったアキラが、依然として揺れる人の波に声を発する。
だが声は周囲の騒ぎと閃光の嵐に掻き消され、周囲の勢いはとどまるどころか逆に輪を小さくするばかりであった。
今日ばかりはこんな所で時間を取っているわけにはいかない。
「す、すみません・・・」
「すみませんが!」
被さるようにして発せられた、一段と大きく張り上がった声。
しんと静まった空間でふと背後を振り返れば、いつの間にかスッと立ち上がって真っ直ぐにこちらを見るヒカルがいた。
対局後、初めてヒカルと視線を合わせた気がすると、アキラは思った。
「すみませんが、質問とかは一人ずつにしてもらえます?
てか、何時も勝った方ばっかり先にインタビュー取ってさ。偶には負けた方から聞いてくれたも良いんじゃないですか?」
そうじゃないとオレ、先に帰っちゃうかも。
一転軽い調子で口にしたその言葉に、取材陣は踵を返してヒカルの周りにぶ厚い円を作った。
必然的に一人、人混みから解放されたアキラが蠢く人の塊へ目を向けると、人々の合間から金色の髪と瞳が見えた。
色素の薄いその瞳がアキラへと静かに頷いた。
「・・・ありがとう。進藤」
穏やかな微笑みと共に呟くと、アキラはがら空きになった出口へと続く扉を開け、大急ぎで廊下横の階段を駆け下りた。
踵を強く地面に打ち付けながら腕時計の時刻を確認する。
(19時56分・・・・)
急げばまだ、今日中には戻れる。
一度文字盤を強く握りしめると、アキラは一層脚に力を込めて駆けだした。
どうしても今日の内に会いたかった。
メッセージを、確かに受け取ってくれたであろう彼女に。
自分を待ってくれている彼女の元へ。
(どうしても、今日)
高層ビルの自動ドアを潜ると、上がりきった息のままアキラは駅へと走り出した。
陽はすっかりその姿を隠し、夜の張りが静かに裾を下ろしていた。
あと、もうちょっと。
連続で名前なくてすみません(汗)
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