病院の玄関前に到着したのは、日付の変わる少し前だった。
アキラは弾む息をそのままに裏口を抜け廊下を走り階段を駆け昇る。
踵が地面を叩く音と、アキラの不規則に吐き出される息づかいが夜の院内に響いた。
駄目だと頭の隅では解っていても、その時だけは他の入院患者の迷惑を考える余裕はなかった。
兎に角、あの部屋へ。
通い慣れたその記憶を頼りに、黒で満たされた廊下を非常灯の光を横目に駆け抜ける。
靴底の音を一段と大きく鳴らすと、目の前には見慣れた扉が立っていた。
息を整える間も惜しんで手を伸ばしたドアノブから冷たい銀の感触が伝わってくる。
アキラは一度力を込め開け放った。
瞬間、冷えた風がアキラの全身に吹き掛かり、暑く火照った顔や手を突き刺した。
咄嗟に片手を翳して眼を細めるが、風は一瞬の嵐を巻き起こした後、何事もなかったかのように静まりかえった。
乱された髪の毛の数本がまだ視界を遊んでいる中で、風の吹き込んできた方向へ視線を向けると
開け放たれた窓と夜空と、その手前には先日と変わらぬ格好で、恐らく月を眺めているのであろうの背中があった。
依然としてまるで溶け込んでしまいそうな薄く小さな背中だった。
アキラが無意識にの元へ歩み寄ろうとすると、
「勝ったんだね」
優しい声が、その背中から発せられた。
「・・・どうして?」
今日の対局は、テレビ中継などされていない。
新聞に取り上げられたとしても、今日中に王座戦第二局の結果を知ることは、まず不可能な筈だった。
些かの疑問を持ちながらも、アキラは不思議と言葉ほどの感情は抱かなかった。
何処かで、分かっていたのかもしれない。
「どうしてって、どうして?」
「・・・・・」
「伝えてくれたんでしょ?」
未だに少し息の弾むアキラに、いつものようにころころとした声で口にして。
ゆっくりと振り返ったの微笑みは、月明かりに照らされて透けるようで、見れば魂を抜き取られそうな美しさだった。
「おめでとう」
「・・・ありがとう」
心に染みる祝福の言葉。
だがそれは、決してアキラの勝利という結果にだけ向けられたものではないのだろう。
緩く首を傾げて微笑んだに、アキラもやっと、対局後の緊張から解放されたように笑った。
ゆっくりと、の側へと近づきながら、アキラは柔らかに語りかける。
「対局中、キミが側にいるような気がしていた。じっとボク達が挟む盤面と、ボク達を包み込んでいるようだった。
進藤の言う、“アイツ”も・・・」
「うん、見てたよ」
「だから、打ったんだ。捧げる碁を。キミ達に、皆に。」
一歩、また一歩。アキラはに歩み寄る。
その言葉に、は満ち足りたように微笑んで
「うん。とても綺麗だった。本当に、とっても。」
ゆっくりと夢見心地に瞳を閉じたにアキラはそっと手を伸ばす。
「明日の朝には進藤も帰ってくる。そうしたら、3人で検討を-----」
「アキラ君?」
触れかけた手を引き戻すと、アキラは背後を振り返った。
そこには、困惑した面持ちの橘の姿があった。
「あ、すみません、橘さん。とっくに閉院の時間だとは分かっていたんですけれど・・・」
苦笑するアキラに彼女は更に顔を歪めた。
「・・・それで・・・・・・何をしに来たの?」
「何って・・・に今日の対局の事を・・・」
そこまで聞くと、橘はアキラから眼を逸らし、胸に抱えていたカルテを両手でギッと握りしめた。
そして震える声で言った。
「アキラ君・・・・・何、言ってるの?ちゃんは・・・・-------」
「え?・・・」
アキラが振り返るとそこには。
空っぽのベッドと、ぽっかり口を開けた大きな窓が月明かりを取り込んでいるだけだった。
真っ白なカーテンが、冷たい風にハタハタと音を立てていた。
粉雪の舞い落ちる冬。
ボクと進藤の王座戦第二戦が行われた日。
はあの人の元へいった。
丁度、ボク達の対局が終局した時だったらしい。
の顔は、とても綺麗に微笑んでいた。