二人が部屋に入ると、
すぐ正面に見える大きな四角い空をバックにが碁を打っていた。
上半身を起こし、膝をまたぐように掛けられた簡易テーブルの上でマグネット碁を広げている。
視線を二人に移したは穏やかな表情を作り、二人へ中に入るよう勧めてからすぐに視線を戻した。
そしてまた真剣な、碁打ちの顔になる。
どうやら最近の大手合の棋譜を初手から並べているらしい。
こういう時のには何を言っても思考が盤上に釘付けなので、アキラとヒカルは黙って椅子に座り
小宇宙の行く末を見守っていた。
サアァァァ________、、、、
と、厚いガラスの向こうから微かな風の音が聞こえ、アキラは視線を上げた。
真剣なの顔を挟んだ奥には、幾らか秋の気配を漂わせ始めた透明感のある青空が広がる。
に会うたび、この病室に来るたびに、アキラは窓を眺めてしまうのだ。
入り口から縦長にのびる病室には、テレビとエアコンが備え付けられてはいるが
それ以外には殆どと言っていいほど何もなくて、到底一人の患者がかれこれ三年間過ごしている病室とは思えなかった。
が入院時に持ち込んだ碁関連の本とマグネット碁以外は。
本当に何もない。
そのことが妙に気になったアキラは、以前何か家具一式を揃えてあげようかとも言ったのだが、
にやんわりと断られてしまい、「それならせめて碁盤だけでもちゃんとした物を」と提案すると
やはりは笑顔で、しかし今度はより断固とした雰囲気で断られてしまったのだった。
その笑顔に切なさを感じたアキラはそれ以来黙って花だけを贈るようにした。
花なら、が喜ぶと知っていたからだ。
は自然が碁と同じくらい好きだ。
この部屋を選んだのも、実は大きな窓から四季折々の景色が眺められるからだったりする。
でも、
アキラはこの窓がどうしても好きにはなれなかった。
何時でも、部屋に入れば嫌でも目に付くこのぽっかりと口を開けた窓は、
病室と外の世界との境界線を曖昧にしていたからだ。
それは良く言えば開放感があると形容できるが、その反面、どこかふわふわと落ち着かない空虚な感じをアキラは受けてしまう。

ぼんやりとそんな事を考えていると

「はぁ・・・凄いな。やっぱり。」

最後の一手を置き終わったらしいが感嘆の声を上げた。
ん〜〜っと一回伸びをして

「あれ、二人とも・・そういえば来てたんだっけ?」

と、今思い出したように目をまん丸くした。
その様子にヒカルは大げさにため息をついてみせる。

「あのなぁ・・・オマエが入れって言ったんだろ?」

人差し指を立ててツッコミを入れると、そのまま指をの額へと持って行き突いた。

「ハハ、そうなんだけど。ごめんごめん。」

ころころと鈴を転がすよりも軽く、心地良い声。

「ったく、折角来てやったのに。碁ばっかするんだったらもう来てやんないぞ。」
「ごめんって〜。感謝してます。ヒカル様が来てくださってうれしいでーす!」

すねた子をあやすように妙なしゃべり方をすると、
それに、オマエバカにしてんのか〜〜?!と突っかかるヒカル。
端から見れば本当に仲の良い姉弟か・・・恋人のようだ。

、棋譜並べをしていたの?」

二人の会話におずおずと口を挟んできたアキラは心なしか少し不機嫌な様子で
紙に印刷された棋譜と、実際にその場で再現された其れとを見比べた。

「うん、そう。本因坊戦第三局。」

も一緒に覗き込んでその棋譜を指さす。

「凄いよね。タイトル戦では慎重になりすぎて名局は生まれないって言うけど。」
「確かこれ、緒方先生と桑原先生だろ?オレも観たけど、これはホントすげェよな。」

いつの間にかヒカルも加わって、それから検討会まで開かれてしまった。
ここのハネのタイミングが絶妙だとか、放り込み後の白のサバキが鮮やかだとか、
プロになって数年の青年と、プロにもなっていない少女の会話とは思えないほどのレベルの高さだった。

「あーあ、どうせなら二人がもっと早く仲良くなってくれれば良かったのに。」

いきなりそんなことを言ったを、アキラとヒカルは寝耳に水といった表情で見つめた。
対するは両手を頭の後ろへ回したかと思うと、ボフッとベッドに倒れ込んだ。

「だってさ、そうすれば私が入院する前に三人で碁会所行ったりして、
他のお客さん達とも一緒にさっきみたいな検討や、対局も出来たのに。」

天井を仰ぎながらは何気なく言ってみたつもりだったのだが、
言われた本人達はどう受け止めたのか、本当に申し訳ないといった様子で縮こまってしまった。

「え?あ、なになに?どうしたのそんなに暗くなって!
  いやだなあちょっと言ってみただけなのに。」
「でも、・・・」
「ストップ!ねえ折角来たんだから、三人で交代戦の早碁しよう。
 社とやったときもおもしろかったし!」

アキラを制止してはマグネットをわけ始めた。

「ま、退院しちゃえばまた好きなだけ打てるしね。」

そしたら一度プロ試験受けてみようかなーなどと明るく振る舞うに、
二人は心が軽くなるのと同時に小さなトゲの痛みを覚えた。
特に、ヒカルは-------

平気なはずがないのだ。
今まで当たり前だと思っていた何か。
それがある日突然なくなってしまって・・・ましてや・・・
それが自分の意志でないのなら。
喪失感を完全に埋めることは出来ない。
愛しい人を、
喪ったことのあるヒカルには、其れが他人事とは思えないのだ。

「のど、渇いたんじゃない?何か買ってくるよ。」

そうアキラが言いだしたのは、ヒカルが過去を回想していた矢先のことだった。

「何がいい?」
「おれ、ポカリな!」
「キミには聞いていない。」

瞬時に明るさを取り戻したヒカルの発言を、アキラはしれっと切り捨てた。

「えーっなんだよケチ!」
「それならキミが買ってくればいいだろう。
 何時もボクに買わせといて、今までのツケとやらは何時返してくれるんだ?!」
「いちいち覚えてんなよ!いいじゃんオマエの方がココの病院慣れてんだから!!」

あーだこーだと言い合う様は、昔の二人からは想像も出来なくて。

「クスッ・・・」
「「?」」

思わず吹き出してしまった。

「くっ・・・くく・・アハハハ!!」

一度出てしまうともうどうにも止められなくて。

「なっ・・なんだよ、頭でも打ったか?」
「ナースコールをした方が・・・」

口論の体制のままで固まってしまった二人に、は慌てて両手を振る。

「ああっ!違う違う。なんだか嬉しいなあって思って。」
「「?」」

目尻の涙をぬぐうを見ながら、ヒカルとアキラは仲良く頭にクエスチョンマークを浮かべた。

「ハハ、そしたら、そうだな、私もポカリにして。それでついでにヒカルのも買ってきてあげてよ。」



それなら仕方がないと
アキラがジュースを買いに病室を出て行ってから数分。
することもなくとヒカルはただボーッと大きな窓の外を眺めていた。
時折、アキアカネが四角い空を音もなくスイスイ通り抜けたかと思うと、遠くの雑木林からツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。

「塔矢、おせーなぁ。」

ポツリ、とヒカルが呟くと、

「アキラは有名人だからね。
 ファンの人にでも捕まっているんじゃない?」

ちらと時計を見て、すぐに窓へと視線を戻す。

「あいつ、断んの下手だもんなぁ。」

ハハッと笑った後、
また沈黙。
しかし其れは居心地の悪いものでは決してなくて、むしろ心地良く、くすぐったい。
囲碁部や院生時代の時は、それこそケンカか遊びかわからない程騒ぎまくっていたのに。

ヒカルはふと、の横顔を見つめた。
確かに少し、やせたかもしれない。
しかしこんな場所で患者の服を着ていなければふつうの女子高生と何ら変わりはない。
変わったのは、きっと・・・

「ヒカル、変わったね。」

不意に投げかけられた言葉に、ヒカルは自分の心を読まれているのかと焦った。
しかし、は依然として窓の外を眺めたまま。

「中学生の頃とだいぶ変わった。」

あかりにも言われたその言葉をヒカルはもう一度反芻してみる。
髪を秋風になびかせたの姿に、なぜか胸が締め付けられて、

「へぇ〜どこが?」

以前よりも、先を予想して聞いてみる。

「心。強くなった。」


また一匹、アキアカネが通り過ぎた。
黄昏れに染まりかけた空。
夕日に照らし出されたの顔が、光に溶けて消え入りそうに見えてしまって・・・

「ヒカル?」

気が付けばヒカルは、の体を抱きしめていた。
柔らかく、包み込むようにして、それでもどこかへ消えてしまわないようにしっかりと。

「うそだ。」

鼻先をの肩へ押しつけて小さな声を漏らす。

「オレは、弱い。」

ヒカルの組まれた腕の輪にすっぽり収まっているは、微かに震えるその背中にそっと手をまわした。

「おまえが倒れた時もそうだった。
 オレ、オマエが死ぬんじゃないかって怖くって、どうしようもなかった。」

今にも泣き出しそうな声。消え入りそうな声。
それでも、にだけはちゃんと届いて。

「あいつが消えた時、あの時からだよ。オレがこんなにも臆病になったのは。」
「うん・・・」

そう、“あの時”。
愛しい人を喪った日。
あの日も、こんな優しい風が吹いていたっけ。

「そうだね。」

ゆっくりと、柔らかな手がヒカルの頭を撫でる。
まるで、“あの人”に触れられているようで愛しさがこみ上げてくる。

「オマエだけなんだよ。オレの弱さ、知ってるのは。」

その言葉に、は何か言いかけて、やめた。
には“あの人”が見えていた。
しかしヒカルと“あの人”の間にはなぜか、自分は入ってはいけないのだという感じがしてずっと黙っていたのだった。
それを口にしたのは、
“あの人”が消えた後だった。

「ねぇ、ヒカル」

そのときも、こんな風にしていたなと思いながら

「それが強いって言うんじゃないかな?」

小さい子供に昔話をするように囁いた。

「自分が弱いって認めるには、とても勇気がいるでしょ?
 ヒカルはそれをしたんだから。」

少しの事ですぐに壊れてしまう人の心の弱さ。
大抵の人間はそれを隠すか、それに飲み込まれるかのどちらかだ。
だが、ヒカルは違う。
飲み込まれそうになりながらも、歩むことで、碁を打ち続けることで、弱さを自分のものにした。

「それだけで十分だよ。ヒカルは。」

そういってヒカルの背中に回した手を、一度だけきゅっと抱きしめるようにして解放した。
そのまま顔を覗き込んで、優しく微笑む。
それにヒカルは笑い返すと

「ありがとな。」

そう言って、の額に自分のそれを軽く重ねた。
お互いの髪がふれ合ってくすぐったい。

「ね、・・ヒカル・・・・」

そのままは呼びかける。

「なに?」

金色に輝く前髪。
その奥にある閉じられたヒカルの目を見て、
は一雫の涙を落とした。










(すっかり遅くなってしまったな。)

両手に缶を持ったアキラは院内を出来る限りのスピードで歩いていた。
受付の前を通り過ぎ、階段を使おうかエレベーターを使うか悩んでいたとき、

「塔矢。オマエ今まで何してたんだよ?」

奥の階段から下りてきたヒカルとはち合わせた。

「ちょっと、父の昔のお得意さんに会ってしまって。」

見ると相当急ぎ足で来たのかアキラは小さく肩で息をしていた。

「やっぱりなぁ。そんなんじゃないかってとも話してたんだよ。」

くくっと笑うヒカルにアキラは眉をしかめた。

「進藤、キミこそ何故ここにいるんだ?」
「バーカ。オマエがあんまりモタモタしてっから、のやつ、
 薬が効いたみたいで寝ちまったよ。」

言いながらヒカルは、アキラの持っていた缶ジュースを取り上げた。

「進藤!」

その場でプシュッとタブを開けて飲み始めたヒカルに、アキラの眉間のシワが更に深くなる。
一方そんなことにはお構いなしのヒカルは刺さる視線をスルーしながら缶の中身を一気に飲み干し、
大きくため息をついた。

「帰ろうぜ。塔矢。」

ポイッと空き缶をゴミ箱に投げ捨て更にもう一本、アキラの手から取り上げる。

「ちょっと進藤!それはっ」
「寝かせといてやれよ。コレはオレが飲んどくからさ。」

そう言うとヒカルは振り返りもせずにどんどんと出口の方へ歩いていってしまった。
アキラは一つだけ残った手のひらの缶を眺めて、ちらっと一度、のいるであろう病室へと目をやる。

「待て!進藤」

ちょうど自動ドアの前で立ち止まったヒカルへと近づいていく。

「何を、話してたんだ?」

振り返ったヒカルは切れ長の目をしばらく見つめてから両手をポケットに突っ込んだ。

「へーそんなこと聞くのかよ?」
「えっ?・・・」

前屈みになって相手を覗き込むと、返答に困ったようにアキラは

「いや・・・」

それだけを言って目をそらした。
しかめっ面の口元に手を添えるアキラを見てヒカルは一度だけ天井を仰ぐとゆっくりと息を吐いた。

「あー・・・そう言えば、こんなコト言ってたな」

いかにもわざとらしく言って自動ドアをくぐると、アキラは「え?」と、出会った頃と同じような無邪気な様子で
ヒカルの後について行った。
オレンジ色に染まった空の下をヒカルは振り返らずに歩いていく。
本当にこいつはのこととなると必死だよな。
と、背後からついてくる優しいオーラを内心微笑ましく思いながら。
それでも、今は。
その優しさも微笑みもただ、自分を締め付けてくるだけで。
もう一度、空を見上げる。
鱗雲が一面に広がっていた。遠く、何処までも。

「オマエと、仲良くしろ、ってさ。」

ツクツクボウシは依然としてその声を遠くから響かせていて、もうすぐそこまで来ている秋の訪れを感じさせていた。


     ---------なァ・・・-----------


遙か彼方を見据えながら、ヒカルは呼びかける。
それは“あの人”へ向けて



     ---------あいつを、よろしくな---------


サァァ・・・・・・と、秋風がヒカルを取り巻く。



     ------------ありがとう-------------


それは、そう聞こえたかもしれない声への、感謝の言葉。

そして、

これから訪れるであろう、悲痛な、嘆きの言葉。
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