スウッと涼しい空気が体を取り巻いた。
日中は軽く40℃に届きそうな夏の暑さも、病院内では適度に効いた冷房と除湿器のおかげで
まるで感じられない。
暑さで少ししおれてしまった花束を抱え直し、アキラは行き慣れた通路を進んだ。
エレベーターはじれったいのでそのまますぐ横の階段を駆け上がる。
病室のドアに面した廊下へ出て、自然と早まる足を抑えながらその中の一つのドアの前で立ち止まった。

フゥ・・・

ゆっくりと息を吐き、静かにドアをノックする。

「どうぞ。」

返事を確認してからそっとドアを開けた。

「まあ、いらっしゃいアキラ君。」

優しく微笑んだのは此処にいる患者のかかりつけ看護婦である橘だ。
ちょうど昼食時だったらしく食べ終わった食器類をお盆ごと下げるところだった。

「何時もおじゃましてすみません。」

少し申し訳なさそうにアキラが言うと、橘はお盆を抱えてアキラのところへやって来た。

「いいのよ。病院って退屈なんだから。お見舞いは来すぎるなんて事ないわ。」

そう言いながら橘は少し見上げるようにしてアキラの目線に合わせ

「それに、アキラ君が来てくれるとちゃんもとても嬉しそうだし。」

とひそひそと囁いた。
そんな言葉に、アキラがリアクションで困っていると橘はクスクスと笑いながらドアノブへと手を掛け

「それじゃあ、ゆっくりしていってね。後でお花の水切りをするわ。」

言って、ドアを丁寧に閉めて出て行った。
磨りガラス越しに影が見えなくなると、アキラはこの病室にいる患者の方へと向き直った。
すると、
いつもの笑顔が目に入った。

「アキラ、来てくれたんだ。」

突き抜けるような青空を切り取った窓に背を向けて、夏の風に髪をなびかせる姿は驚くほど此処の空気になじんでいて
自然とアキラの口から長い吐息が漏れる
と、今まで知らず焦っていた自分に気が付いた。

「今日も早く終わったからね。」
「で、そのまま来たんだ?」

クスクスと笑うを見て、初めて自分がスーツ姿のままだったことに気づき「あ・・・」と声を上げてしまった。
こんな格好で花束を持って・・・本当に自分は焦っていたんだなとアキラは目の前の人と一緒に苦笑するしかなかった。
いつの間にか見舞いに来るのが日課のようになってしまって、アキラの中では一つの生活リズムとして組み込まれているのだった。
このリズムが崩れるのは良くない。
一度、研究会が長引いた後にどうしても見舞いに行きたくなって、面会終了時間ぎりぎりに走って顔だけのぞきに来たことがあった。
ゼエゼエと肩で息をしながら、キョトンとしているの顔を見、間もなくやってきた橘に注意されたことがあったのだ。
病院内を走るなと。
もしかしたら今日の対局も、自分はものすごい顔をしていたのではないだろうか。
ヒカルが時たま口にする「オマエ打ってるときの顔、殺人モノだよ〜」と言う言葉を思い出した。

そんなアキラの心中を知ってか知らずか、は右手に握られた花束を見て目を輝かせた。

「花!持ってきてくれたんだ。」

まるでクリスマスプレゼントをもらう子供のようでアキラはそれを嬉しく思う。
ベッドに近づいてに花束を渡すと、自分は見舞客用に側に置いてあった丸椅子へと腰を掛けた。

「珍しいものを選んだつもりなんだけど。」
「うん。私の見たことないやつばっかり。」

そう言って、指で花弁を撫でたり鼻先を近づけて香りをかいだりしながら、透き通った瞳に鮮やかな花の色を映し出した。
そのレンズ越しの花の方がアキラには美しく見えて、まるで氷柱花のように神秘的な光を放つ。
は全てを照らす光のようだとアキラは思う。
どんなものにでも全てに、平等に彼女は笑顔を振りまくのだ。
そしてそれは決して自分を主張するのではなく、自分の周りのものを輝かせるために。

それからしばらく、
花屋で聞いてきた名前をに教えたり、今日の対局の事や、研究会でのこぼれ話などを
橘が花を生けに病室に入ってくるまで続けた。

「あらあら、本当に何時も仲がよろしいこと。」

綺麗に生けられた花と花瓶を抱えて戻ってくると、橘は萎れたものを抱えて出て行ったときと同じ事を言った。
そして今度は少しすねたような口調で、

「やっぱりちゃんはアキラ君といる方が楽しそうね。」

と言っていたずらっぽく笑った。

「そんなことないですよ〜。
橘さんといる時だってすっごく楽しいですよ。」

また、柔らかな笑顔を向けた。
ただ時々怖いですけどね。などと冗談も言いながら。
が入院し始めて三年が過ぎる。
此処にもすっかり馴染んでしまい、橘とは兄弟のようで、どこか自分と市河さんに似ていた。

「私が怖いのはちゃんのせいよ。」

橘に人差し指で額を小突かれて、は照れ隠しのようにおでこをさすった。

ちゃんね、食事中でもマグネット碁を引っ張り出して来て打つのよ。」

二人の会話を少し離れたところから微笑ましく眺めていたアキラだったが、
急に話を振られてはっと我に返った。

「え?食事中に・・・ですか?」

聞き返してを見ると、はばつが悪そうに口を少しゆがめて半開きにして、目は斜め上を泳いでいた。

「その・・・食べながら石、置いてたら怒られちゃって・・」

ハハハ・・・と照れ笑いをする姿は見た目よりも少し幼い感じがする。
打つときとのギャップが更にそれを引き立てるのか、の見せる様々な表情にアキラは時々肩を揺らしたくなる。

「当たり前よ。もう、行儀が悪いんだから。」

そう言いながら放たれた二発目のデコピンはの素早い動きでかわされた。




「もうこんな時間。」

まだ少し時間がある言うことで、それから一局早碁をやり、片づけをしていると
時計を見たが声を上げた。

「本当だ。そろそろ帰らないと。」

アキラは自分のつけている腕時計でも確認しながら小さな白と黒の磁石をビニール袋に分けて席を立った。

「それじゃあ、。また来るから。」

上着を抱えてそう言うと

「うん、またね。」

友達と帰り道で別れるときのように、ははずむ声で手を振った。



病院を出ると、もう周りは薄暗くなっていた。
灯り始めた街灯の下をアキラはゆっくりとした足取りで家路へと向かう。

(いつまで入院するんだろう。)

そんなことを考えていると、足は更に重く引きずるようになってしまうのだった。
夜風がすうっとアキラの髪をたなびかせる。
昼間のような暑さは、もう感じられなかった。

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