今日は何かが違っていると、塔矢アキラは思った。
それを最初に感じたのはの掛かり付け看護婦である橘に会ったときだった。

「橘さん。」

普通なら丸一日かかる手合いを半ば強引な手筋で午前中に片づけたアキラは、
診断表を持って病室を出る彼女に出くわした。
この時間帯、いつもなら見かけることのないスーツ姿の青年を見て、橘は少し驚いたように振り返った。

「あら、アキラ君。今日は早いのね。」

それでも直ぐに穏やかな笑顔になって首を傾ける。

「ええ、何となく今日は早くに会いたい気がして・・・」

アキラには珍しくはにかんだような表情を見せた。
そんな様子に橘は口元に手を当ててくすっと笑いながら言う。

「もしかして、以心伝心ってやつかしら?」
「え?」

アキラは思わず素っ頓狂な声を上げる。

ちゃんもあなたに会いたがっていたから。」
「・・・・・・」

その時、ほんの一瞬だけ
橘の顔が曇ったのをアキラは見逃さなかった。

「あら、どうしたの?」

じっと自分の顔を見て突っ立っているアキラに気が付き、橘は怪訝な顔で覗き込んだ。

「あっ・・・いえ・・」

もう一度改めて橘の顔を見つめるが、そこにはもういつもの優しい笑顔しかなかった。

(ボクの見間違いだろうか・・・)

確かに今、胸の奥をえぐられるような歪んだ顔が垣間見えたと思ったのだが・・

「橘さん、他の担当に移られるんですか?」

何かの不安に掻き立てられて、アキラは怖ず怖ずとそんな事を聞いてみた。

「あら、何で?」
「ここに来る途中、他の病室の標札に橘さんの名前が書いてあったのを見かけたもので・・・」
「ああ、あれね。」

困惑気味のアキラとは対照的に、いつものようにてきぱきと答える橘。
その中に戸惑いの様子は見えない。

「急に替わることになっちゃったのよ〜。全く、上の人は勝手よね。」

などと明るく愚痴をこぼす。
しかしその明るさが妙に浮いていて馴染んでいないように感じるのは気のせいだろうか。

「橘さ・・」
「アキラ?」

すぐ前のドアの向こうからの呼ぶ声が聞こえた。

「ほら〜私としゃべってる場合じゃないわよアキラ君。ちゃんに早く会いたかったんでしょ?」

橘はそう言いながらアキラの背中をずいずいと押し進めた。

「あっ・・・あの、橘さん・・・っ」

まだ何か言いたげなアキラにはお構いなしで、橘はそのままアキラを病室内へ押しやると
ごゆっくり〜とにかっと笑って出て行ってしまった。
大げさな扉の音の後、急に静かになった病室。
しばらく橘の去ったドアを見詰めていると

「一つ下の病室に入院してる、男の子の所に行くんだって。」

軽やかな声が、アキラの背中に響いてきた。

「寂しくなるなぁ」

その声の主へアキラが視線をやると、何時もと違って東から差し込む日の光で不思議な感覚に襲われる。
淡い色の中で彼女はニコッと微笑むと

「早かったね。」

無邪気な笑顔でそう言った。
そんなにアキラも思わず微笑み返す。

「うん。今日は相手が長考しないタイプでね。」

見るとベッドの脇に置かれた小テーブルにはやはりマグネット碁が置かれていた。
しかし、そこに出来上がっている模様は今までに見たことがないもので

「これは?」

思わず手に取ってまじまじと眺めてしまう。
そんなアキラの子供のような仕草に、は小さく肩を上下させて笑うと
前屈みになって身を乗り出し、アキラが手に持つ盤に近づいた。

「あっ、ボクが行くよ。」

起き上がる様子に慌てたアキラは
素早くを元の位置に戻させると、自分もその側へと丸椅子を移動させ座った。

「アキラが前に、どうしても上手い手が見つからないって言ってた形、あったでしょ?」

は頭を枕に預けながら、夢でも見ているかのようにたどたどしく口を動かす。

「ああ。」

それは半年ほど前の事だっただろうか。
アキラが王座戦に王手をかけた第四局、アキラの優勢で進んでいた中盤に、当時の王座であった一柳が
黒模様に一手を放り込んできたのだった。
打たれてみるとこれ以上はないという最善の一手で、アキラはどうしてもその手の上手いサバキ方を見つけられなかったのだ。
結局そこから優勢は一柳に傾き、三目半、アキラは届かずに終わってしまった。

「覚えているよ。」

苦い想い出だったが、やヒカルと検討しているうちに段々と気分が和らいでいったのを覚えている。
そのお陰か続く最終戦の第五局では接戦の末、アキラの中押し勝ちとなり、初のタイトルを獲得したのだが。

「結局、キミもボクも進藤も、
 あの手に応手する術が見つけられなくて、悔しがっていた。」

あれからもう半年も経つのかと、改めて懐かしさを感じながらアキラは再び手元の盤面へと視線を移した。

「・・え?・・・じゃあ、この形は・・・・・・・」
「そう。私が考えたの。白の放り込んだ手に二段バネしてからのシボリの形。」

そう言っては得意げに天井を仰いだ。

「これが・・・」

盤上では、絶対的破壊力を持っていたはずの白石が、黒石にがっちりと取り囲まれていた。
行き場を無くし孤立した白の固まりは、後はもう取ってくださいと言わんばかりに縮こまるだけで、
さらに黒模様は、今まで勢力を持って睨んでいた対角線上の白石をも中央から断ち切り、逆に相手の模様を荒らしている。

「・・・すごい・・・」

完璧。
としか言いようのないその形に、アキラはもはや息をのんで見詰めるしかなかった。
こんな手を打たれたら
どんな棋士でも負ける前に闘志を失ってしまうだろう。

「でしょ〜?自分でも結構上手くサバけたかなって思ってるんだ。」
「いや、もうこれは“サバキ”と呼ぶには大きすぎるよ。」

そう、これは

これは
       
       まるで----------------



「神の一手。」



の言葉に、アキラはハッと顔を上げ、ベッドに横たわる彼女の顔を見詰めた。
揺れる、瞳で・・・

「-----なーんて、ね。」

ペロッと僅かに舌を覗かせると、とぼけたように仰向けに寝ころんだままの姿勢で窓の外を見やった。
どこか遠くを見詰める瞳には、優しい光が宿っている。
ちらちらと淡い光が乱反射を繰り返し、川底から日の光を見上げているような感覚に浸る。
アキラはその光に吸い寄せられるように音もなく立ち上がると、の体の両脇に手をついた。
枕に散らばる髪を見詰め、の顔を見下ろし、瞳を覗き込む。
風が、ほんのりと干し草の香りを部屋に運んできた。
二人の髪が微かに揺れる。
視線が、絡まる。

「ね。」

その沈黙を破ったのはだった。

「何?」

アキラは答える。
視線は依然としての瞳を捕らえたまま。

「散歩、したい。」

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送